「麒麟がくる」で「逃げよ信長」がありました
残念ながら「お市の方の小豆の袋」は出てきませんでした
出来れば観たかったですね
「信長には次がある」で締めくくりでした
さて、信長の金ケ崎の退き口よりも234年前に
歴史上に残る戦いがありました
延元元年(1336年)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に攻め寄せると、
後醍醐天皇はこれを比叡山に避けられた が、同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、
京都に還幸されることになり、その際天皇は別に新田義貞(にったよしさだ)に命じ、
尊良親王・恒良親王を 奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向せしめられた。
新田義貞一行は雪中の木の芽峠を越えて敦賀(つるが)に着き、
氣比神宮(けひじんぐう)の大宮司氣比氏治に迎えられその居城、金ヶ崎城に入った。
一方足利尊氏は高師泰(こうのもろやす)を総大将として兵六万余もって陸海より
金ヶ崎城を攻撃、延元2年正月、 杣山城(そまやまじょう)の瓜生保、里見時成等兵五千余も
金ヶ崎の急を救わんとしたが、迎撃に遭い、保、時成等戦死、3月6日遂に落城、
尊良親王は新田義 顕(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と共に亡くなられた。
尊良親王御年27歳、義顕18歳であったと伝えられる。
恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、
延元3年4月13日毒薬を盛られて亡くなられた。御年15歳であったという。
(金崎宮HPより抜粋)
金崎宮
御祭神は、尊良親王(たかよししんのう) 恒良親王(つねよししんのう)
本日のメインでございます
金崎宮の摂社 絹掛神社です
御祭神は、尊良親王(たかよししんのう) 恒良親王(つねよししんのう)以外の人々
萬蔵は、社標になります
萬蔵書体ですね
東 摂社 絹掛神社
西 大正元年八月
南 祭神 新田義顕朝臣 気比氏治朝臣 以下殉難將校
北 名古屋市西区塩町 伊藤萬蔵
金ヶ崎の探索に出掛けましょう
金ヶ崎の地図です 赤い線を移動しました
尊良親王御墓所見込地 あくまでも見込みです
尊良親王の墓所は、京都市左京区南禅寺下川原町に指定
永観堂の北 若王子神社の近く 哲学の道からよく見えます
越前金ヶ崎城で自害した親王の首級は京に運ばれ獄門に
その後、永観堂に届けられ、
葬礼を執行した後、首塚として祀られているとのことです
金ヶ崎の尊良親王御墓所見込地は、
現在 親王御台臨・自刃の地とされているようです
※御台臨・・・皇族がおいでになること
金崎宮 宮域でしょうか 良い感じです
月見御殿
ここから見た月は美しかったでしょうね
月見御殿の眼下に見えるのは絹掛ノ崎
落城の際、恒良親王が人目を避けるため御衣を岩の上の松の枝に
掛けて脱出されたとのこと
もちろん今は、その松はありませんが・・・
絹掛ノ崎の岩の上の松の枝に御衣を掛けて甲楽城まで
気比神宮の神官斉治(なりはる)と小舟で脱出
脱出した先です 下長谷の洞窟
恒良親王が脱出したのは 越前甲楽城 ここに下長谷の洞窟があります
しかし、捕えられて京都に幽閉され毒殺されたとのことです
金崎宮の鳥居です
一周して帰りに確認しました 鳥居の寄進者
初代 大和田荘七 妻 大和田 繁
なるほど敦賀といえば大和田氏ですね
萬蔵も大和田氏に敬意を払って
摂社の社標として遠慮したのかも
今回のオマケです
敦賀 気比神宮の萬蔵です
https://line.me/S/sticker/1090260