雪丸の京都散歩2

雪丸号(自転車)に乗ってちょっとディープな京都をご紹介します

2020年11月

このブログに掲載されている文章・写真・画像・イラストなどの無断転載を禁じます。

金ヶ崎と萬蔵・その2

「麒麟がくる」で「逃げよ信長」がありました
残念ながら「お市の方の小豆の袋」は出てきませんでした
出来れば観たかったですね
「信長には次がある」で締めくくりでした

さて、信長の金ケ崎の退き口よりも234年前に
歴史上に残る戦いがありました

延元元年(1336年)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に攻め寄せると、
後醍醐天皇はこれを比叡山に避けられた が、同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、
京都に還幸されることになり、その際天皇は別に新田義貞(にったよしさだ)に命じ、
尊良親王・恒良親王を 奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向せしめられた。


新田義貞一行は雪中の木の芽峠を越えて敦賀(つるが)に着き、
氣比神宮(けひじんぐう)の大宮司氣比氏治に迎えられその居城、金ヶ崎城に入った。


一方足利尊氏は高師泰(こうのもろやす)を総大将として兵六万余もって陸海より
金ヶ崎城を攻撃、延元2年正月、 杣山城(そまやまじょう)の瓜生保、里見時成等兵五千余も
金ヶ崎の急を救わんとしたが、迎撃に遭い、保、時成等戦死、3月6日遂に落城、
尊良親王は新田義 顕(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と共に亡くなられた。
尊良親王御年27歳、義顕18歳であったと伝えられる。


恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、
延元3年4月13日毒薬を盛られて亡くなられた。御年15歳であったという。
(金崎宮HPより抜粋)

金崎宮
御祭神は、尊良親王(たかよししんのう) 恒良親王(つねよししんのう)

本日のメインでございます
金崎宮の摂社 絹掛神社です
mankane-001mankane-004
御祭神は、尊良親王(たかよししんのう) 恒良親王(つねよししんのう)以外の人々

萬蔵は、社標になります
mankane-002mankane-003
萬蔵書体ですね 
東  摂社 絹掛神社

西  大正元年八月

南  祭神 新田義顕朝臣 気比氏治朝臣 以下殉難將校

北  名古屋市西区塩町 伊藤萬蔵

金ヶ崎の探索に出掛けましょう
kmap03
金ヶ崎の地図です 赤い線を移動しました

mankane-006mankane-007
尊良親王御墓所見込地 あくまでも見込みです

mankane-008mankane-009
尊良親王の墓所は、京都市左京区南禅寺下川原町に指定
永観堂の北 若王子神社の近く 哲学の道からよく見えます

越前金ヶ崎城で自害した親王の首級は京に運ばれ獄門に
その後、永観堂に届けられ、
葬礼を執行した後、首塚として祀られているとのことです


金ヶ崎の尊良親王御墓所見込地は、
現在 親王御台臨・自刃の地とされているようです
※御台臨・・・皇族がおいでになること

mankane-011

mankane-010
金崎宮 宮域でしょうか 良い感じです

kanegasaki kinukakemankane-012
月見御殿
ここから見た月は美しかったでしょうね
月見御殿の眼下に見えるのは絹掛ノ崎

落城の際、恒良親王が人目を避けるため御衣を岩の上の松の枝に
掛けて脱出されたとのこと
もちろん今は、その松はありませんが・・・

絹掛ノ崎の岩の上の松の枝に御衣を掛けて甲楽城まで
気比神宮の神官斉治(なりはる)と小舟で脱出

脱出した先です 下長谷の洞窟
恒良親王が脱出したのは 越前甲楽城 ここに下長谷の洞窟があります
しかし、捕えられて京都に幽閉され毒殺されたとのことです
shimohase001shimohase002

shimohase003


金崎宮の鳥居です
mankane-013
一周して帰りに確認しました 鳥居の寄進者
初代 大和田荘七 妻 大和田 繁 


なるほど敦賀といえば大和田氏ですね
萬蔵も大和田氏に敬意を払って
摂社の社標として遠慮したのかも

今回のオマケです
敦賀 気比神宮の萬蔵です
kehi-001

kehi-004kehi-002

04
https://line.me/S/sticker/1090260
m-nana


金ヶ崎と萬蔵

先日 2年振りに南越前へアオリイカ釣り行きました
その帰りに金ケ崎の萬蔵を確認に・・・


金ケ崎の場所は、敦賀港です
敦賀で確認されている萬蔵は二ヶ所
気比神宮とこの金ケ崎の金崎宮


以前、気比神宮の萬蔵は確認しましたが
金ケ崎は初めて 敦賀港には何度も何度も釣りに来ていますが
何故か金ケ崎は行ったことはなかった
すぐ近くにあるのでいつでも行けるという思いから
何年も経ってしまいました(笑)

金ケ崎探索には、駐車場が(二ヶ所)完備されていて車が便利です
駐車場にはトイレもあります 大型のバスも数台停めることができる
割と広い駐車場です
kane-001

kane-002
隣には、敦賀駅にあったランプ小屋も移築されて保存
ちなみに煉瓦は、イギリス積みです

さて、金崎宮に向かいましょう 平日の午前中でしたが
ぼちぼち人がいます
kane-003
熊出没注意! 今年はドングリが不作で熊が冬眠前に
山を下りてきていると・・・

100mほど歩いて階段の下に到着
kane-004
なるほど・・・そういえば麒麟でした(笑) 人がいるのも納得

「参拝の方は、マスク着用のこと」と・・・
駐車場までマスクを取りに往復です(笑)
kane-005
階段を上がって行くと眼下に敦賀港が見えてきます

敦賀ターミナル・敦賀火力発電所あたりは埋め立てられた土地
昔は、金ヶ崎という名前のように三方を海に囲まれた半島で
天筒山方面で陸地とつながっていた場所で天然の要塞のようで
誰もが城を築いてみなくなる地形です


最初は源平合戦の際、平通盛が木曾義仲との戦いのために城を
築いたとのことです

kane-006

kane-007

kane-008

kane-009kane-010
狛犬さんに挨拶してお参りしましょう

kane-011
どなたでしょうか 香恋(カレン)ちゃんです
一緒に写真を撮ることができます

う~ん、顔出しパネルでなかったのがちょっと残念(笑)

萬蔵の前に・・・
次回「麒麟がくる」では 朝倉攻めですね
先程の看板にありました「金ケ崎の退き口」です

説明もいらない織田信長に関しては欠かせないお話
それでは、簡単に・・・
元亀元年(1570年)の織田信長VS朝倉義景
織田信長が越前へ朝倉義景攻撃するため出兵
金ヶ崎城を攻略していざ義景の首を取ろうと越前(木ノ芽峠)に・・・

その時 北近江の浅井長政が裏切ったという情報が入る
信長にとっては妹お市を嫁がせて義弟である盟友です
信じられなかったに違いありませんが そこは戦国時代

そして、次々に入る知らせに事実となって慌てる
ここで出てくるのがお市の方の小豆の袋です
そうです小豆の入った袋の両端を紐で結んだ例のやつです
前方に朝倉 後方に浅井 逃げ道がない袋の鼠状態ですと
今では俗説となっていますが・・・
人気のシーンですね 

信長は、秀吉・家康にしんがりを任して京へ逃げ延びた
死んで信長を守れということですね

お市の方の小豆の袋は、後世の創作だとされていますが
みなさん好きなんですよね そんなフィクションが・・・
自分もですが(笑)
木ノ芽峠から朝倉が 疋田からは浅井が・・・
信長の脱出は絶体絶命&危機一髪 情報戦の勝利でした
逃げて勝利ではありませんが 逃げるが勝ち・・・ということも

麒麟ではどうするのでしょうか 楽しみです


次回 金ケ崎の萬蔵に続きます

今回のオマケです
金崎宮には、例のモノがお守りに・・・
kane-012
これです
難関突破守・勝守

04
https://line.me/S/sticker/1090260
m-nana




 

ギャラリー
  • 輪灯の灯芯揃え
  • 輪灯の灯芯揃え
  • 輪灯の灯芯揃え
  • 輪灯の灯芯揃え
  • 輪灯の灯芯揃え
  • 輪灯の灯芯揃え
  • 輪灯の灯芯揃え
  • 輪灯の灯芯揃え
  • 後七日御修法 結願日
アーカイブ
  • ライブドアブログ