雪丸の京都散歩2

雪丸号(自転車)に乗ってちょっとディープな京都をご紹介します

2012年09月

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澀谷街道の道標 その2

澀谷街道の道標 その2

なぜ わざわざ道標に入れたのか
先回からの疑問・・・・・・火葬場・・・・・

sibutani-2hon

2005年9月 ガードレール新品 後の公衆電話も今では緑色の電話になっている
道標は、変わらず建っている
しかし、カードレールを見ると本当に危なかったようです(交通事故)


道標が建立された時代に戻ってみましょう

そこで明治12年の地図にあった
西本願寺火葬場・東本願寺火葬場について調べてみた
この両本願寺火葬場は現在の京都市中央斎場です

本願寺史料研究所報にありました

花山火葬場は東西の本願寺の共同によって創設された。
「明治十年大谷派及本派本願寺ノ二派共同シテ
市外宇治郡山科村字花山二火葬場ヲ新設セシニ」

「東西の本願寺の共同によって」がポイントですね


いつ花山火葬場はできたのでしょうか
料金規則が京都府に提出された明治十年十二月であったので
どうやら明治十年十二月と想像できる(あくまでも可能性)

明治9(1876)の地図の地図を見ると火葬場がない

『京都市衛生年報(大正十三年)』は、
「市内二在ル火葬場ハ上京区第三十五学区衣笠蓮華谷町二設置セル市
設蓮華谷火葬場一箇所ノミナルモ、
洛束山科村字花山ニ東西本願寺経営ノ花山火葬場アリ、
本市及附近町村ノ火葬ノ多クハ此ノ両火葬場二於テ処理セラル」
「市設火葬場二於テ焼屍スル員数ハ本市火葬総数ノ三一・三% ニ過
ギズ、其ノ他ノ多クハ花山火葬場二於テ処理シタルモノト見ルヲ得べシ」


花山火葬場は、昭和六年三月四日に京都市へ有価譲渡
されたあと、菓若式火葬嬢は取り壊され、新たに重油を
使用する日新式の火葬櫨が昭和七年十一月に竣工する。

                        (本願寺史料研究所報より抜粋)

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清閑寺から見た 1号線  澀谷街道の道標


そして 明治十一・十二年はコレラの流行状態になる
コレラによる死亡人数が増加し 感染者死亡の場合は「火葬」が必要になる

洛中から火葬場までのルートは
鳥辺野方面から清水・麦酒醸造所・清閑寺・火葬場ルート
または 馬町から渋谷街道を上って火葬場のルートか
いづれにしてもコレラによる多くの遺体を山の火葬場まで運ばなくてはならない
専門の人では間に合わなかったでしょう 大勢の人が火葬場まで足を運んだ


コレラの件は 祇園祭にも影響します

明治12年(1879) ・6月からコレラ流行につき、祭礼11月に延期。
後祭、南観音山(みなみかんのんやま)復興。 前祭、綾傘鉾徒歩囃子で加列。
ドイツ皇孫、御入洛を機会に7日の巡行を終わっても、そのまま解体せずに残し
13日の後祭の宵山(よいやま)は前祭の山鉾も点灯して囃子をしたので空前の賑わいとなり
15日には御所に参入。


澀谷街道の道標は明治十三年六月 建立 
コレラの流行は収まっていたでしょうが
今後のために道標に「火葬場」を入れたのでしょうか・・・・・・分かりませんが・・・・

道標の建立者が西本願寺有力門信徒・・・・これも関係アリそうです

澀谷(渋谷)街道の道標 (しぶたにかいどう)

澀谷(渋谷)街道の道標 (しぶたにかいどう)

澀谷は(古体字)です

自分の地域から車で上洛(入洛)する場合 おおまかに3つのルートがあります
〇1号線で東山トンネルを通っての入洛・・・・主に下京・南区方面に利用
〇旧東海道を通って蹴上 そして三条 または白川で北へ
〇途中トンネルを経由して大原方面から左京・上京・北区方面に入るルートがあります

今回の道標は、1号線の東山トンネル(東山隧道)275mを出たところにあります
トンネルを越えると緩やかな下りで右カーブになります

sibutani-map-01

現在の渋谷街道 (ゼンリンの地図より)


澀谷(渋谷)街道とは
東山区本町2丁目を起点として馬町を通り「澀谷(渋谷)街道の道標」に
東山トンネルと平行して花山洞(トンネル)がある
花山洞は、明治三十六年(1903)渋谷街道のトンネル部分として開通
東山トンネルができてからは歩行者用のトンネルとして利用
山科区を1号線と三条通りの間を東に進んで奈良街道になり旧東海道に至る


さて澀谷(渋谷)街道の道標ですが、堂々たる道標です
しかし、ガードレールで下のほうの文字が見えない
昨今、石碑がなくなるのはほとんど交通事故です・・・・・ガードレールも
我慢しなくてはいけませんね
白いガードレールは車が衝突するとひとたまりまないが 石碑を守る
心理的効果はあるようです

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写真でもお分かりになるように ガードレールが凹んでいます
まさに危機一髪・・・・・(汗)
この画像は、今年6月のものなので 今は修理されているかも・・・

この道標を通過するたびに 「ようこそ京都へ おこしやす」って言われているようで
まさにウェルカム・ボードならぬウェルカム・石碑ですね(笑)


それでは道標(石碑)を見てみましょう
sibutani-1

澀谷(渋谷)街道を正面として

左側は  すく  大佛
           本願寺  道


正面は    澀谷街道


右側は    右 火葬場
         左 山科大津  道


裏側は    明治十三年六月建之

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杉本新左衛門
岩佐孫兵衛
井上治郎兵衛
芝原嘉兵衛
片山長兵衛
池田長兵衛
杉本治郎兵衛
見えない部分は想像で

建立者は、7人 

杉本新左衛門といえば杉本家住宅の第六代新左衛門為賢(おそらく)
西本願寺有力 門信徒・真宗信徒生命保険設立にも関わる
ほかの方も京都で有名な人物の名です

この頃(明治12年)の「澀谷街道」碑の付近の地図を見てみましょう
(国際日本文化研究センターの所蔵地図データベースにあります)
清水寺 西大谷 鳥辺山等
その中で目に付くのは麦酒醸造所

麦酒醸造所が設立されたのは明治10(1877)年
麦酒醸造所は、西洋技術を導入した勧業政策を推進していた
京都府は,ビールの製造に乗り出すことになります
そこで清水寺音羽滝に白羽の矢が立ったわけです 音羽滝の水質の良さは有名でしたから 

しかし、今では考えられないことですが当時の日本人の嗜好に合わず
明治14年に閉鎖  僅か4年間だけでした 
この「澀谷街道」碑は まさにこの頃、建てられた

もちろんトンネルはまだなく 狭い峠道で「馬町ヨリ渋谷コヘ山科大ツエ出ル」とある

小松谷と描いたお寺がある(小松谷 正林寺「こまつだに しょうりんじ」)のことです
もちろん「豊臣公塚」もある

西本願寺・東本願寺の火葬場がある

もう一度、石碑を見てみると
大佛・本願寺は分かる そして山科大津もなるほどです
しかし、火葬場は納得できない
 
京都にある 道標は、都(みやこ)ということで 地名で何里とかいうのは意外と少ない
寺社・名所までの案内が多い たとえば祇園まで何丁とか 三条大橋まで何丁とか
知恩院まで何丁というように・・・
どうして火葬場なのか・・・・・・まさか当時は、名所????

 
澀谷街道の道標 その2に続きます

智積院にて

今回は、智積院です  9月4日に行ってきました

場所は、七条通りが東大路に突当るところです
三十三間堂の少し東ですね
京都市東山区東大路通り七条下る東瓦町964番地

それでは行ってみましょう
今回は、車でおじゃましました 智積院会館南側に駐車場があります
30台くらい駐車できますが参拝・拝観及び会館利用の方のみ駐車可能です
あたりまえですね(笑)・・・・無料です

智積院・・・・・ちしゃくいん 真言宗智山派の総本山です
成田山新勝寺、川崎大師、高尾山薬王院が大本山
名古屋市の大須観音を別格本山など大きな宗団ですね


真言宗智山(ちさん)派の総本山で全国に3000余の末寺がある。
もと紀州根来山(ねごろ)の学頭寺智積院であったが、
豊臣秀吉にせめられたとき、京の学頭玄宥(げんゆう)僧正は、難を京都に避け、
後に徳川家康の帰依を受けて慶長5年(1600)この地の祥雲寺を賜わり、
智積院の名を継いだ。
祥雲寺は、秀吉が長男棄丸(すてまる)の菩提のため建立した寺で、
当時は東山第一といわれた。  
収蔵庫にある豪華な襖絵(国宝)は祥雲寺以来のもので、長谷川等伯の
筆といわれ、桃山時代の代表的障壁画として知られている。
このほか、張即之筆金剛経(国宝)、南画の祖といわれる王維の瀧図
(重要文化財)をはじめ、仏画・経巻など多数の指定文化財を蔵している。
 庭園(名勝)も同じく桃山時代の作庭といわれ、築山と苑池からなる
観賞式林泉で京洛名園の一つに数えられている
                               (智積院 駒札より)

真言宗も他宗と同様 紆余曲折を経て今日の姿に・・・・
興味のある方は 調べてみてください 色々ありました・・・・
詳しくはwebで・・・こればっかり(笑)

それでは、拝観受付で拝観料を支払って中へ・・・・・500円です 
拝観順序に従ってまず・・・・というよりいきなり収蔵庫に向います
自動扉が開き靴を脱ぐ そしてもう一度、扉を開く

心してください いきなりクライマックスです
長谷川等伯(1539-1610)とその弟子達によって描かれた「楓図」「松に立葵図」や
等伯の長男・久蔵の作とされる「桜図」など 桃山時代を代表する障壁画です
迫力に圧倒されます・・・きっと

「桜図」等伯の長男・久蔵の作品・・・・・25歳
しかし、26歳の若さで死去
翌年、才能ある息子・久蔵を失った失意のなかで描かれた
傑作「楓図」 どんな気持ちで描いたのか
息子のことを思って菩提を弔うために・・・・・・
いや息子のことを忘れようとして作品に打ち込んだのか

収蔵庫での注意・・・この時期限定なのかどうかわかりませんが
エアコン効きすぎで寒いくらいです  作品のためでしょうか
ゆっくり見たい人にはちょっと辛い

次に進みましょう 収蔵庫の自動扉が開くと真夏に戻りました(笑)
門をくぐると講堂です 
順路に従って右へ ぐるっと講堂を回って大書院に上ります

先程収蔵庫見た「桜図」「楓図」等のレプリカがあります
きれいですね 描かれた当初はこんな感じでしょうね
ピカピカです

chisyaku-kaede

「楓図」

chisyaku-sakura

「桜図」

障壁画を背にすると庭です 利休好みと伝えられ中国の廬山を模って造られた庭
さてここの庭は、どこから見ましょうか
主人が居る場所・上段の間は 残念ながら入れませんのでその前からですかね

chisyaku-niwa1

ここから見るのが一番良い場所でしょうか

池が書院の縁の下に入り込んでいるのも特徴の一つなので縁に座って見るのがいいのでしょうか

chisyaku-pano

縁からですと こんな感じでしょうか パノラマにしてみました

chisyaku-niwa2

手水鉢越しの庭・・・・・結構好きです

まぁ、お好きな位置でご覧下さい 
サツキの時期が一番良いとパンフレットにもありましたがその時期には
「お好きな位置でご覧下さい」は無理でしょうね  

大書院・講堂と回る

chisyaku-7jyo

正面から七条通りを見る 三十三間堂方面

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講堂西の手水鉢

最初に上った大書院に戻ってもう一度 庭を鑑賞・・・・貸切です

さあ、戻りましょう 
帰る前に先程の大書院のレプリカの障壁画を思い出しながら
もう一度、収蔵庫の国宝の「桜図」「楓図」等に会いに行きました(笑)


chisyaku-kikyo2

寺紋の桔梗紋
智積院の瓦と智積院の桔梗です

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金堂と扁額「智積院」
 昭和50年(1975年)に空海生誕1200年を記念して再建
五色幕が印象的でした



収蔵庫と名勝庭園
今の時期は空いていますので「お好きな位置でご覧下さい」でどうぞ
意外と百日紅ががんばっています
暑いですがゆっくりできます

鴨長明 長明方丈石

9月になりました
しかし、9月になっても日中は暑いですね

突然ですが、徒然草 第五十五段をどうぞ・・・・・

「家の作りやうは、夏をむねとすべし。
冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」

なるほど しかし今のように コンクリートの家とアスファルトの道では・・・・夏は暑い
「堪へ難き事なり」になってしまっています
家を作るときはエアコンを付けるべし・・・でしょうか  電力不足ですが(うーん)


さて、今年は鴨長明が『方丈記』を執筆して800年を記念する年です

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
玉しきの都の中にむねを・・・・・・・・・・・・・・・・」

方丈記といえば 上記の部分を知っている程度ですが(笑)

鴨長明は、平安後期・鎌倉初期の歌人 随筆家 
賀茂御祖神社(下鴨神社)の禰宜さんだった鴨長継の次男として生まれて
河合社の禰宜さんになろうとしたが叶わなかった
後に出家して蓮胤(れんいん)となる そして建暦2年(1212)方丈記を書き上げる
三大随筆( 徒然草・枕草子・方丈記)の一つ

簡単すぎですね・・・・・・詳しくはwebで


日野に「方丈記」を著した場所といわれるところがあります
現在は、長明方丈石(石碑)があります


それでは行ってみましょう
伏見区です といっても山科区の南です
今回は、石田大山の交差点から「長明方丈石」を目指します

cyomei-oyama

石田大山の交差点 東側にある「乳薬師」法界寺への道標です
ちなみに「三宅碑」です
もう1本は 親鸞聖人の誕生院への道標

東に向って雪丸Ⅴで上っていきます
緩やかな上り坂です ゆっくり進みましょう

710mで日野自治会公会堂の交差点に到着です
右に行くと 法界寺・日野誕生院です
今回は 交差点東南角に 長明方丈石是より1000mとあります道標に
従って東に進みます

cyomei-1000

日野自治会公会堂の交差点です

120m進んで交差点を右折します 80m進むと道標が見えてきました

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長明方丈石是より800m 新しい道標ですね

どんどん東に進みます

右手に萱尾神社が見えてきました
ずーっと上り坂が続きます

cyomei-gihi

伏見区 日野慈悲町です  「慈悲町」良い町名ですね

合場川を渡ると 日野野外活動施設管理棟です
少しキツイ坂道を上っていきます
すると 道標が2本あります

cyomei-250

右 長明方丈石みち   是より約250mの道標2本

雪丸Ⅴは マウンテンバイクなので山道(ここから)を入っていきます
しかし、少し進んだところでバイクはやめにして歩きます

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こんな感じの林道 倒木あり・・・です


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大きな岩が見えてきました
「方丈記庵跡探訪記念標」とあります

一段と急な道を上ると どうやら目的地のようです

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「長明方丈石」の石碑 明和九年(1772)と
「方丈の庵跡」解説している石碑 山城ライオンズクラブ

長明方丈石 位置DATA

経度 135/49/36.1  
緯度  34/55/48.8 ±5m 日本測地系


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長明方丈石 碑文の大意

物の伝来することは非常に難しい。名器と呼ばれる道具に銘を記して遺すのは
持主の死後も世に伝えられ,自分の名を輝かすためである。
それすら時には忘れさられることがあり,永く伝えられることは
偶然のなせる業だと言ってよい。
蓮胤上人,すなわち鴨長明は世俗の交わりを絶ち山に隠れた人であるが
後世の人はその風雅を慕い,方丈の跡は文人墨客の来訪する所となった。
これは長明が死後の名を求めたためではない。その人柄によるものである
                         (フィールド・ミュージアム京都より抜粋)

なお、長明方丈石関係の画像は 2012年4月の終わりのものです


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下鴨神社の河合神社境内にある復元された方丈庵
組み立て式(折り畳み式)の小さな小屋です
大きさは 3m×3m いわゆる1丈四方の大きさ


山道になってから10分程入っただけですが結構 山の中って感じです
こんな山の中で書かれたんですね 夜は真っ暗 一人っきり 
どうしてこの場所を選んだのか・・・・なぜでしょうね

一度、お出かけください 長明の気持ちが分かるかも・・・・・です
女性の一人でのお出かけはやめて下さい



おまけです

庭の木にツクツクボーシがやってきましたので宿題を思う
tsukutsukukun

我家に来たツクツクボウシ君です
ツクツクボーシ・オーシンツクツク鳴いていましたね
お好きな方でどうぞ(笑)

今年は 1日が土曜日なので 宿題の提出は3日の月曜日ですね
自由研究は終わりましたかぁ 先日も言いましたが
自由研究は、やってもやらなくても自由ではなく やらなくてはいけません(笑)




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