今回は、一言寺です
場所は、伏見区醍醐・・・・醍醐寺のお膝元なので
かえって隠れてしまっているのでしょうか
しかし、歩くと1km以上ありますので醍醐寺のついでにという方は少ないのでは・・・
静かなお寺さんです
おじゃましたのは休日だったがお参りの方が1名だげだった
あとは 竹の子を持った地元らしきおばちゃん(謎)
真言宗醍醐派 別格本山 正式には金剛王院 通称一言寺
1874年(明治7年)醍醐三流の一つ金剛王院と合併しました。
ご本尊千手観音菩薩像は、一心に念じれば願いごとが即座に叶うという言い伝えから
“一言観音”として親しまれています
「ただたのめ 仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言寺かな」 御詠歌です
高倉天皇の中宮「建礼門院」に仕えた少納言の藤原通憲(信西)の娘「阿波内侍(あわのないし)」が
出家して「真阿(しんな)」と名乗り、清水寺の観音さんの霊告によって、一言寺を建立したと伝えます
本堂は、1810年(文化七年)の再建 内陣の中にさらに土蔵造りの奥内陣がある珍しいものです
旧奈良街道沿いに「一言寺観世音」の石碑が建っています
ここから出発しましょう
約200m 東に進みます だんだん坂になってきました
石段をあがりましょう ずっと坂道を上ってきて 最後に石段
お寺には よくあるパターンです
山門まで上がって振り返ると良い景色です しばし見とれる(坂道で疲れただけ-笑)
山門のそばに京都市登録天然記念物の大きなヤマモモの木が出迎えてくれます
山門をくぐると紫陽花がたくさんあります
これからですね
一言寺のもっとも華やぐ季節でしょうか
その時期に一度訪れたいですね
さあ、本堂です・・・えっ・・・どうしたぁ・・・屋根が・・・屋根が・・・
屋根がたいへんなことになっています・・・・どうしたのでしょうか
何かがガーンってあたったようですが 何かが落ちてきたのか
御詠歌額です 本堂の左側に掛かっています
「ただたのめ 仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言寺かな」 御詠歌です
嘉永三年 正月 1850年・・・・ずいぶん時がたちました 約160年前の額です
160年間この場所からお参りに来る人々を見守ってきた そしてこれからも・・・・・・
この御詠歌額の寄進者は
京 新町通 近江屋宗助と油小路通 山田町 石川屋儀兵衛
寄進者の方を調べてみましたら
愛宕神社の奥の社の額に石川屋儀兵衛 堺屋清兵衛 近江屋宗助があるらしい
愛宕神社に2年連続で登りましたが 見逃してしまいました
また確認に行かなければなりません
一言寺の2人と同じだ もしかしたら伊藤萬蔵や三宅清治郎は石物の寄進だったが
額専門の寄進者でしょうか・・・・・・要追跡&調査ですね
本堂の上り口に 「本日の筍は大特別大入袋で揃えています 大小六本入 千円」
なるほど 石段のところですれ違ったおばちゃんの竹の子の謎が解けました(笑)
良い竹の子(しかもお値打ち)でしたが自転車なので・・・・・・残念です
ところで入口石段の右側に「阿波内侍 名持仏 一言寺観世音」の石碑があります
よく見ると3つほどに折れて修復の跡があります
この石碑は、裏面をご覧になると「昭和四年春 稟京都三宅安兵衛遺志建之」とあります
いわゆる「三宅碑」です 三宅碑?
三宅碑とは、簡単に説明しますと
大正末年から昭和初年(1921~1930年)にかけて、京都市の西陣帯地の卸商でした
三宅清治郎が 建立した石物を「三宅碑」と呼んでいます
ほとんどが道標で 石碑の後に「京都三宅安兵衛依遺志建之」とあります
これは、京都三宅安兵衛の遺志によりこの石碑を建てたということです
三宅安兵衛は、三宅清治郎の父親で いわゆる父の遺言で
「京都の為になるようにお金を使うように」と言われたので
社寺や旧跡に関する案内碑や道標を建立することに決定した
三宅清治郎は自分の名前を入れないで(一部の道標を除く)父親の名で建てたわけです
明治13年から昭和2年(1880~1927)にかけて石物を寄進した伊藤萬蔵氏と重なる
(伊藤萬蔵については今年1月の当ブログを参照してください)
なお三宅碑については 以下を参照してください 詳しく紹介されています
京都・八幡市 http://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/index.html
中村武生氏 http://homepage2.nifty.com/NakamuraTakeo-HP/yasu/index.html
左 石段入口にある元の石碑(交通事故) 右 再建された三宅碑(旧奈良街道)
実は、この道標 元は旧奈良街道にありました(出発した場所)
そして昭和62年交通事故に遭って バラバラに倒壊してしまったのです
(おお、おまえもかっていう感じで石碑の大敵は車です)
廃棄するのには忍びなかったのしょう 門前に修復・移動して来ました
旧奈良街道の元あった場所には新しく造られた石碑が建っていますが
なんと復元されたのです しかも倒壊したのが昭和62年2月
復元されたのが同じ62年3月・・・・・すぐ再建されたのです
もちろん「昭和四年春 稟京都三宅安兵衛遺志建之」を入れて・・・・
一言寺観世音碑(再建碑)の東面(出発した場所にあった石碑です)旧奈良街道
本来なら門前に保存して終ってしまうのだが 同じ位置に復元
建立時には、本人が場所を検討して決定した
その場所だから「同じ位置に」に意味がある・・・・ですね
穴太寺の萬蔵碑と同じです・・・・頭が下がります(感動です)
京都でも寄進者の物語あり・・・・・ですね
場所は、伏見区醍醐・・・・醍醐寺のお膝元なので
かえって隠れてしまっているのでしょうか
しかし、歩くと1km以上ありますので醍醐寺のついでにという方は少ないのでは・・・
静かなお寺さんです
おじゃましたのは休日だったがお参りの方が1名だげだった
あとは 竹の子を持った地元らしきおばちゃん(謎)
真言宗醍醐派 別格本山 正式には金剛王院 通称一言寺
1874年(明治7年)醍醐三流の一つ金剛王院と合併しました。
ご本尊千手観音菩薩像は、一心に念じれば願いごとが即座に叶うという言い伝えから
“一言観音”として親しまれています
「ただたのめ 仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言寺かな」 御詠歌です
高倉天皇の中宮「建礼門院」に仕えた少納言の藤原通憲(信西)の娘「阿波内侍(あわのないし)」が
出家して「真阿(しんな)」と名乗り、清水寺の観音さんの霊告によって、一言寺を建立したと伝えます
本堂は、1810年(文化七年)の再建 内陣の中にさらに土蔵造りの奥内陣がある珍しいものです
旧奈良街道沿いに「一言寺観世音」の石碑が建っています
ここから出発しましょう
約200m 東に進みます だんだん坂になってきました
石段をあがりましょう ずっと坂道を上ってきて 最後に石段
お寺には よくあるパターンです
山門まで上がって振り返ると良い景色です しばし見とれる(坂道で疲れただけ-笑)
山門のそばに京都市登録天然記念物の大きなヤマモモの木が出迎えてくれます
山門をくぐると紫陽花がたくさんあります
これからですね
一言寺のもっとも華やぐ季節でしょうか
その時期に一度訪れたいですね
さあ、本堂です・・・えっ・・・どうしたぁ・・・屋根が・・・屋根が・・・
屋根がたいへんなことになっています・・・・どうしたのでしょうか
何かがガーンってあたったようですが 何かが落ちてきたのか
御詠歌額です 本堂の左側に掛かっています
「ただたのめ 仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言寺かな」 御詠歌です
嘉永三年 正月 1850年・・・・ずいぶん時がたちました 約160年前の額です
160年間この場所からお参りに来る人々を見守ってきた そしてこれからも・・・・・・
この御詠歌額の寄進者は
京 新町通 近江屋宗助と油小路通 山田町 石川屋儀兵衛
寄進者の方を調べてみましたら
愛宕神社の奥の社の額に石川屋儀兵衛 堺屋清兵衛 近江屋宗助があるらしい
愛宕神社に2年連続で登りましたが 見逃してしまいました
また確認に行かなければなりません
一言寺の2人と同じだ もしかしたら伊藤萬蔵や三宅清治郎は石物の寄進だったが
額専門の寄進者でしょうか・・・・・・要追跡&調査ですね
本堂の上り口に 「本日の筍は大特別大入袋で揃えています 大小六本入 千円」
なるほど 石段のところですれ違ったおばちゃんの竹の子の謎が解けました(笑)
良い竹の子(しかもお値打ち)でしたが自転車なので・・・・・・残念です
ところで入口石段の右側に「阿波内侍 名持仏 一言寺観世音」の石碑があります
よく見ると3つほどに折れて修復の跡があります
この石碑は、裏面をご覧になると「昭和四年春 稟京都三宅安兵衛遺志建之」とあります
いわゆる「三宅碑」です 三宅碑?
三宅碑とは、簡単に説明しますと
大正末年から昭和初年(1921~1930年)にかけて、京都市の西陣帯地の卸商でした
三宅清治郎が 建立した石物を「三宅碑」と呼んでいます
ほとんどが道標で 石碑の後に「京都三宅安兵衛依遺志建之」とあります
これは、京都三宅安兵衛の遺志によりこの石碑を建てたということです
三宅安兵衛は、三宅清治郎の父親で いわゆる父の遺言で
「京都の為になるようにお金を使うように」と言われたので
社寺や旧跡に関する案内碑や道標を建立することに決定した
三宅清治郎は自分の名前を入れないで(一部の道標を除く)父親の名で建てたわけです
明治13年から昭和2年(1880~1927)にかけて石物を寄進した伊藤萬蔵氏と重なる
(伊藤萬蔵については今年1月の当ブログを参照してください)
なお三宅碑については 以下を参照してください 詳しく紹介されています
京都・八幡市 http://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/index.html
中村武生氏 http://homepage2.nifty.com/NakamuraTakeo-HP/yasu/index.html
左 石段入口にある元の石碑(交通事故) 右 再建された三宅碑(旧奈良街道)
実は、この道標 元は旧奈良街道にありました(出発した場所)
そして昭和62年交通事故に遭って バラバラに倒壊してしまったのです
(おお、おまえもかっていう感じで石碑の大敵は車です)
廃棄するのには忍びなかったのしょう 門前に修復・移動して来ました
旧奈良街道の元あった場所には新しく造られた石碑が建っていますが
なんと復元されたのです しかも倒壊したのが昭和62年2月
復元されたのが同じ62年3月・・・・・すぐ再建されたのです
もちろん「昭和四年春 稟京都三宅安兵衛遺志建之」を入れて・・・・
一言寺観世音碑(再建碑)の東面(出発した場所にあった石碑です)旧奈良街道
本来なら門前に保存して終ってしまうのだが 同じ位置に復元
建立時には、本人が場所を検討して決定した
その場所だから「同じ位置に」に意味がある・・・・ですね
穴太寺の萬蔵碑と同じです・・・・頭が下がります(感動です)
京都でも寄進者の物語あり・・・・・ですね