雪丸の京都散歩2

雪丸号(自転車)に乗ってちょっとディープな京都をご紹介します

2012年05月

このブログに掲載されている文章・写真・画像・イラストなどの無断転載を禁じます。

一言寺です。

今回は、一言寺です

場所は、伏見区醍醐・・・・醍醐寺のお膝元なので
かえって隠れてしまっているのでしょうか
しかし、歩くと1km以上ありますので醍醐寺のついでにという方は少ないのでは・・・
静かなお寺さんです


おじゃましたのは休日だったがお参りの方が1名だげだった
あとは 竹の子を持った地元らしきおばちゃん(謎)


真言宗醍醐派  別格本山 正式には金剛王院 通称一言寺

1874年(明治7年)醍醐三流の一つ金剛王院と合併しました。
ご本尊千手観音菩薩像は、一心に念じれば願いごとが即座に叶うという言い伝えから
“一言観音”として親しまれています
「ただたのめ 仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言寺かな」 御詠歌です

高倉天皇の中宮「建礼門院」に仕えた少納言の藤原通憲(信西)の娘「阿波内侍(あわのないし)」が
出家して「真阿(しんな)」と名乗り、清水寺の観音さんの霊告によって、一言寺を建立したと伝えます

本堂は、1810年(文化七年)の再建 内陣の中にさらに土蔵造りの奥内陣がある珍しいものです



旧奈良街道沿いに「一言寺観世音」の石碑が建っています
ここから出発しましょう
約200m 東に進みます だんだん坂になってきました

石段をあがりましょう ずっと坂道を上ってきて 最後に石段
お寺には よくあるパターンです
山門まで上がって振り返ると良い景色です しばし見とれる(坂道で疲れただけ-笑)
山門のそばに京都市登録天然記念物の大きなヤマモモの木が出迎えてくれます

ichi-nagame

山門をくぐると紫陽花がたくさんあります
これからですね 
一言寺のもっとも華やぐ季節でしょうか

その時期に一度訪れたいですね

さあ、本堂です・・・えっ・・・どうしたぁ・・・屋根が・・・屋根が・・・

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屋根がたいへんなことになっています・・・・どうしたのでしょうか
何かがガーンってあたったようですが  何かが落ちてきたのか


ichi-gaku

御詠歌額です 本堂の左側に掛かっています

「ただたのめ 仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言寺かな」 御詠歌です

嘉永三年 正月  1850年・・・・ずいぶん時がたちました 約160年前の額です
160年間この場所からお参りに来る人々を見守ってきた そしてこれからも・・・・・・

この御詠歌額の寄進者は
京 新町通  近江屋宗助と油小路通 山田町 石川屋儀兵衛

寄進者の方を調べてみましたら
愛宕神社の奥の社の額に石川屋儀兵衛 堺屋清兵衛 近江屋宗助があるらしい

愛宕神社に2年連続で登りましたが 見逃してしまいました
また確認に行かなければなりません

 一言寺の2人と同じだ  もしかしたら伊藤萬蔵や三宅清治郎は石物の寄進だったが
額専門の寄進者でしょうか・・・・・・要追跡&調査ですね


ichi-takenoko

本堂の上り口に 「本日の筍は大特別大入袋で揃えています 大小六本入 千円」
なるほど 石段のところですれ違ったおばちゃんの竹の子の謎が解けました(笑)

良い竹の子(しかもお値打ち)でしたが自転車なので・・・・・・残念です


ところで入口石段の右側に「阿波内侍 名持仏 一言寺観世音」の石碑があります
よく見ると3つほどに折れて修復の跡があります



この石碑は、裏面をご覧になると「昭和四年春 稟京都三宅安兵衛遺志建之」とあります

いわゆる「三宅碑」です  三宅碑?

三宅碑とは、簡単に説明しますと
大正末年から昭和初年(1921~1930年)にかけて、京都市の西陣帯地の卸商でした
三宅清治郎が 建立した石物を「三宅碑」と呼んでいます

ほとんどが道標で 石碑の後に「京都三宅安兵衛依遺志建之」とあります
これは、京都三宅安兵衛の遺志によりこの石碑を建てたということです

三宅安兵衛は、三宅清治郎の父親で いわゆる父の遺言で
「京都の為になるようにお金を使うように」と言われたので 
社寺や旧跡に関する案内碑や道標を建立することに決定した

三宅清治郎は自分の名前を入れないで(一部の道標を除く)父親の名で建てたわけです


明治13年から昭和2年(1880~1927)にかけて石物を寄進した伊藤萬蔵氏と重なる
(伊藤萬蔵については今年1月の当ブログを参照してください)


なお三宅碑については 以下を参照してください 詳しく紹介されています
京都・八幡市 http://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/index.html
中村武生氏  http://homepage2.nifty.com/NakamuraTakeo-HP/yasu/index.html


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左 石段入口にある元の石碑(交通事故)     右 再建された三宅碑(旧奈良街道)

実は、この道標 元は旧奈良街道にありました(出発した場所)
そして昭和62年交通事故に遭って バラバラに倒壊してしまったのです
(おお、おまえもかっていう感じで石碑の大敵は車です)
廃棄するのには忍びなかったのしょう 門前に修復・移動して来ました

旧奈良街道の元あった場所には新しく造られた石碑が建っていますが
なんと復元されたのです しかも倒壊したのが昭和62年2月
復元されたのが同じ62年3月・・・・・すぐ再建されたのです
もちろん「昭和四年春 稟京都三宅安兵衛遺志建之」を入れて・・・・

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一言寺観世音碑(再建碑)の東面(出発した場所にあった石碑です)旧奈良街道

本来なら門前に保存して終ってしまうのだが 同じ位置に復元
建立時には、本人が場所を検討して決定した
その場所だから「同じ位置に」に意味がある・・・・ですね

穴太寺の萬蔵碑と同じです・・・・頭が下がります(感動です)

京都でも寄進者の物語あり・・・・・ですね 

5・11 大津事件・拾遺

5月11日になりました

先回の大津事件でこの方を忘れることはできません
「畠山勇子」です。
一般には「烈女畠山勇子」でしょうか

大津事件の続きという形にさせていただきました

畠山勇子とは、誰でしょうか?

大津事件後、天皇陛下をはじめ日本政府は、予定通り東京に来ていただくように懇願したが 
結局、本国の皇帝の命令で神戸から帰国した

ニコライ皇太子自身は、東京に行くつもりで皇帝も了承したらしいが 
ニコライの同行者らが すぐ帰国させたほうが良い旨を皇帝に懇願して 
神戸からの直接ロシアに帰国となったようである


畠山勇子(ゆう)は、

「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」

彼女は、親などの影響を受け政治や歴史に興味を持っていて
常に新聞などを熱心に読み政治に関心を持っている女性だった
そんな勇子は、このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない
国民が一つになって皇太子に帰国を思いとどませなければならないと思っていたようである

「千葉県畠山勇子より露国大臣」と「日本政府御旦那様」などの書面をしたためていた
内容は、東京に入ってゆっくり怪我の回復に努めて欲しい
一方は、なんとか帰国を思いとどまるように懇願しようと京都までやって来たが
皇太子はすでに帰国してしまった・・・・・遺書のようであった


皇太子は帰ってしまった・・・・  
そのことに悲観して・・・・・・・遺書を残して京都府庁前で死を選んだ  
彼女は、自分の死後も見苦しくないよう 着物のすそが乱れぬために
手ぬぐいでしっかりと膝を縛り剃刀で胸と喉をかき切った。

自分自身の死をもって謝罪しようとしたのだろう

この畠山勇子の行動は、マスコミも大々的に取上げたので
「女性の身でありながら日本国を思い死を選んだ」として有名になった

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畠山勇子の墓所がある末慶寺


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門前にある石碑


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畠山勇子の墓
34/59/41.3   135/44/59.5  ±5m 日本測地系


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墓碑の後


その後のニコライ皇太子は、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世となるのですが
日露戦争で敗北、第一次大戦そして革命 ソビエト連邦の成立
退位したあと幽閉され、1918年7月17日に処刑隊によって
ニコライらをはじめ妻や子供も射殺された・・・・・・・五十歳であった


日露戦争関係では 「師範桜碑」がある
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出雲路鞍馬口碑の後 松の隣に自然石の「師範桜碑」がある
場所は、北区の出雲路橋西詰です

明治38(1905)年に日露戦勝を記念し賀茂川葵橋より御園橋に至る両岸の堤防に桜楓を植えた
この碑はその植樹事業を記念するものです


shihansakurahi

師範桜碑 碑文の大意
甲辰の年(明治37年)に日露戦争が勃発し,日本軍は連戦連勝した。
そこで桜や楓数千株を賀茂川の堤に植えてその記念とする。
あわせて優秀な生徒を育てる教育者を生み出すという本学の熱意もこめるものである。
                            (フィールド・ミュージアム京都より)



5・11 大津事件

おかげさまで 今回でブログが100本目となりました
今後もぼちぼちですが 少しディープな京都をご紹介していきますので
よろしくお願いします


大津事件が起こったのは5月11日
今年もまもなくです
というわけで今回は「大津事件」のご紹介です

さて、今回の大津事件とはどんな事件なのでしょう

ニコライロシア皇太子が来日
警備の巡査がニコライを襲う
日本中 天皇を巻き込んで大騒ぎ

簡単に言うとこんな事件です(簡単すぎ)


それではもう少し詳しく順番に見ていきましょう

明治24年(1891)4月27日 早朝 長崎港
ニコライロシア皇太子がやってきた

なぜロシア皇太子が日本にやってきたのか・・・・・・・
それはロシアが作ろうとしているシベリア鉄道
ウラジオストックとハバロフスク間の起工式に父の名代として
ウラジオストックに行く予定でその途中に東洋諸国を訪問する
ギリシャのジョージ親王も同行していた

その当時、日本は幕末のロシアによる樺太・利尻・択捉に
おける不法行為の思いが強く残っている状態だった

マスコミは、ロシアの極東政策(朝鮮半島への勢力拡大)には
警戒の必要アリ シベリア鉄道もその足掛かりのため
しいては日本へも手を伸ばしてくるとあおった
今回のニコライ皇太子来日もその偵察ではないかと・・・・・・


当時のロシアは強国で 領土は全世界の6分の1に達する
軍事・経済などどの分野をとっても 特に陸軍は世界一だ
日本よりはるかに優位で 超大国
そんな国の皇太子が来日・・・・・・不気味だ

日本中に不安が広がっていく  
それに西南戦争でやぶれた西郷隆盛が実は死んでなくロシアで生存している。 
その西郷が皇太子とともに鹿児島に帰ってくる。 
そんな説が信じられて うわさがうわさを呼ぶ状態に陥る

なんといっても相手は超大国だ
ロシアのご機嫌を取ってなんとか穏便に済ませようと・・・・
日本政府の取った対ニコライロシア皇太子の政策は
「おもてなし」作戦だった(今も変わっていない)

そんな中 ニコライ皇太子が京都にやって来た
くどいようだがニコライ皇太子は、ロシア皇帝になる人物なのである

ホテル(宿)の選択は、常盤ホテル(現在の京都ホテルオークラ 元の京都ホテル)が宿泊場所
敷地内桂小五郎像があるホテルですね 
おさえに西本願寺
皇太子用の人力車は新品 車夫は北垣国道(京都府知事)に依頼そして料理に至るまで完璧だ

宮家の方々や政府高官も続々上洛
そして5月9日 ついにニコライ皇太子御一行様が七条停車場にご到着  
京都おもてなし大作戦スタートです・・・・・・・・

東山如意ヶ嶽と衣笠山に「大」の文字を点火・・・・大文字の送り火です
大文字山がウェルカムボードになったわけですね

そして京都といえば・・・・・・・・そうですね祇園です
中村楼に舞妓・芸妓さん 40名のお出迎え(おしのびなのに)
http://www.kyotohotel.co.jp/100th/1st_zenshi/no12.htmlに詳しい

京都御所・西陣・二条城・西&東本願寺などを訪れた

5月11日
琵琶湖の周遊のために大津に出発
こちらでもたいへんおもてなしをされてニコライ皇太子御一行様は
大変満足して出国なさいました・・・・めでたしめでたし・・・・・終り


しかし・・・・・とはならなかった
大津から京都へ帰る途中で事件は起こったのです

警備中の巡査・津田三蔵がサーベルをふりあげ
ニコライ皇太子に斬りかかったのです

皇太子を乗せていた人力車を後押ししていた車夫が飛びかかって
津田巡査押さえたので幸い傷は浅かったが それでも皇太子の
後頭部が約9cm切られてなかなか出血が止まらなかった
しかし、命に別状ない


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大津事件の現場 滋賀県大津市


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大津事件の碑(露国皇太子遭難地の碑)
35/00/13.4  135/52/03.6 ±3m 日本測地系


世界最強の陸軍国の皇太子を傷つけたのだから日本政府いや日本中が大パニック!!
「事件の報復のためにロシアが日本に攻めてくる」誰もがそう思ったでしょう

たいへんなことになってしまった こうなったら国を挙げての「謝罪」を示して
なんとか穏便にしていただきたい  
違う意味の「おもてなし」が始まる
政府は内務大臣・西郷従道、外務大臣・青木周蔵、滋賀県知事らを免職して謝罪

またまたくどいようだがニコライ皇太子は、ロシア皇帝になる人物なのである

皇太子の暗殺未遂事件による日露関係の悪化を恐れた明治天皇は、
さっそく京都の宿に皇太子を見舞った
そして治療のため、神戸に寄港中のマゾーワ号に帰る皇太子を天皇みずから送った

政府・民間に限らず皇太子に対しておびただしい数の見舞品を送ったり
ありとあらゆる謝罪の意を示した

ニコライ皇太子一行は、神戸から帰国したのだが(東京行きは中止)
その際、ニコライ皇太子からは「問題ない かえって丁寧なもてなしに感謝する」と
関係者は、一応安堵するのだが・・・・・・・・・・・なんといってもロシアだ・・・・・

当時の松方内閣は、対ロシア関係の悪化を恐れ旧刑法116条(大逆罪)を適用して
津田巡査を死刑にすべしとした。 日本の大半もそうすべきと思ったであろう

〇旧刑法116条 (大逆罪)
 天皇三后皇太子ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ
 死刑ニ處ス

殺人はもちろん傷害も含まれる。しかも既遂・未遂とも同罪となる。
したがってこの条文を適用する限り、被告人の死刑は免れない。

政府は津田巡査を死刑にすべしとした。 この条文を根拠として・・・・
マスコミも死刑にすべしと 書きたてた

ここで大審院(最高裁)の院長児島惟謙の登場となる
児島惟謙らは、大逆罪は日本の皇室に適用されるものであるので
外国の皇太子に適用するのは無理があると考えた
よって通常の殺人罪にあたる旧刑法292条(謀殺罪)を適用するものとして
また未遂なので292条と112条を適用して無期徒刑の結論に至った

政府としては、たいへん不満だったに違いない
政府の干渉を一切退け、ロシアに媚びることなく無期徒刑(無期懲役)の判決を下し
司法の独立を守った。
大津事件は、司法権の独立を守った事件としても有名になった

一方、ロシアはこの判決に対して一部不満を持つ者もいたようだが
結局、武力報復も賠償要求も行われなかった。
皇帝も皇太子も日本の迅速な処置や謝罪に対して寛容な態度を示した
よほど日本に対して友好的だったのだろう・・・・・・
大国の意地なのかも・・・・・・・(小国に対してむきになるのもどうかと)


しかし、なぜ警備中の巡査・津田三蔵がニコライ皇太子を襲ったのか?
動機は?思想背景があったのか?
結論は、分からない・・・・・です(謎)
日本征服のための偵察ではないか
津田巡査が三度まで皇太子に対して脱帽の礼を行ったのに一回の答礼もなかった
西南戦争と西郷隆盛帰国説と津田巡査の立場
諸説ありですが、殺すつもりはなく一太刀ニコライにあびせたかっただけという
説もあります。
秘密裁判でしたので犯行の動機や思想背景があったのかは一切、謎のままです


裁判で無期徒刑を受け、津田三蔵は滋賀県監獄署から兵庫へ移され、 北海道の釧路に送られた
津田巡査は同年9月29日死去(明治24年1891年)
突然だった 4ヶ月半で死んでしまった・・・・またまたなぜ?

こちらも苛酷な強制労働のために死亡した
それとも殺害された・自殺・病死だろうか 諸説アリです(謎) 

13年後に日露戦争が勃発し あのような結果になろうとは
事件がおこった1891年には誰一人として想像していなかったでしょうね

otsu-daicyo

三重県伊賀市の大超寺(だいちょうじ)です
藤堂藩家老藤堂玄蕃家代々の菩提寺


otsu-haka

伊賀上野の大超寺の墓所(津田三蔵)
写真は、2011年10月のものです
看板があったがこの時点では読みにくくなっていた
たぶん看板の下の小さな石が墓石なのだろうか
たまたまお寺の方が留守だったようで聞けなかった
34/45/40.4   136/08/12.9  ±3m 日本測地系


尖閣諸島沖で中国漁船と海上保安庁の巡視船が衝突した問題で
一連の処置をみて この大津事件を思い出したのは
私だけではなかったろう・・・・・・・

六道珍皇寺 井戸×2

先日、東山の六道珍皇寺にもう一つの井戸の記事が・・・


小野篁ゆかりの井戸公開 東山・六道珍皇寺

平安前期の高官小野篁(たかむら)ゆかりの「冥土通いの井戸」で知られる
京都市東山区の六道珍皇寺で、昨夏に見つかった新たな井戸の整備工事が完了した。
冥土からの出口の井戸として「黄泉(よみ)がえりの井戸」と名付け、28日から公開する。

冥土通いの井戸は、篁が閻魔(えんま)大王のもとへ向かう入り口だったとの伝承がある。
昨年、寺北側の民有地の開発に伴って別の井戸が見つかった。
境内にあったと伝わる出口の井戸と推定し、寺が約23平方メートルの土地を購入して整備した。

28日からの寺宝展で二つの井戸を間近に見られる。
坂井田興道住職は「出口の井戸は化野(あだしの)(右京区)との説があるが、
かつて葬送の地だった六道の辻にあってもおかしくない。
井戸が見つかるのも篁の導きと感じる」と話している。5月6日まで。有料。

境内にあった石材で枠を整えた「黄泉がえりの井戸」。
深さ35メートルで今も水が出ている                 2012年4月27日


以上の記事が京都新聞に
これは行かなければなりません

5月1日行ってきました 六道珍皇寺


6do-pos

本日は、山門に係りの方がいらっしゃる
「いかがですか 小野篁の新しい井戸、特別公開です」やるき満々です
トランシーバーで 「1名様入られます」 連絡は完璧のようです
500円を支払って本堂へ

すでに説明をする係りの方がスタンバイ
珍皇寺のこと・六道のこと・鳥辺野・小野篁等の説明があります

簡単ですが
六道珍皇寺
お寺の前の道は鳥辺野(葬送の場)へつながる道で(現在は松原通)、ここがあの世とこの世の境でした

お盆の「六道まいり」で有名ですね 先祖の霊を迎える精霊迎えの行事 
ご先祖様はこの世とあの世の境である六道の辻を通って帰ってくると考えられています
迎え鐘を突いて 高野槙を買い求める人でたいへん混雑します
古来より精霊は高野槙の葉に乗って冥土からくるものと信じられています

そして大文字の送り火で帰っていくことになります
生と死を意識する場所ですね


小野篁は、どんな人なのでしょうか?

小野篁という人は、内裏に勤めていた 今でいう国家公務員です
「スーパーマン的な人物」多才でなんでもできた人物(ミケランジェロのような?)

そんな人物なのでいつしか毎夜、地獄に行って閻魔大王にも仕えているという
うわさもあった人物

6do-enma

閻魔様と言えば 引接寺(千本えんま堂)の閻魔様 


六道珍皇寺からあの世に毎晩、通って朝に
嵯峨の大覚寺門前の六道町にあった福生寺(ふくしょうじ)の井戸から
この世帰って来たと言われている
しかも 帰りの井戸は、7つもあったとか


小野篁は,地獄で苦しむ亡者のために罪を受けているという地蔵尊に出会い
感激して現世に戻り福生寺を建立して地蔵尊を祀ったといいます
福生寺は清涼寺の東の後宇多院天皇皇后遊義門院今林陵より東側と言われています
(明治の初めに廃寺)

現在、井戸の伝承はかつての福生寺の本尊として伝わる地蔵菩薩とともに
清涼寺西隣の薬師寺に引き継がれている

6do-yakusi

「生の六道」の石碑 清涼寺西隣の薬師寺前
後(北面)には 招金山福生(正)寺縁りの寺   嵯峨竜蟠山薬師寺建  とあります

ここから東山・六道珍皇寺まで直線距離でも約9.5km 
どうやって珍皇寺まで帰っていったのか・・・・・???

しかし、六道珍皇寺 寺域の東に帰りの井戸があったという言伝えがあったようで 
上記の新聞記事となった


一通りの説明が終っていよいよ庭へ・・・・・期待が高まる

廊下に沿って歩いていく 
沓脱石のところに おっちゃんスタンバイ
「ここからスリッパに履き替えて庭に下りてください」

なるほど  庭に下りるとき おっちゃんに「写真いいですか」尋ねると
いいですよ ここ(縁側)からは・・・・・・・ 
庭に下りたら写真撮影禁止です・・・・・・・と
なに・今なんとおっしゃいました

あたらしい井戸はここ(沓脱石)からは見えない・・・・・えーっ、ここまで引張っておいて

6do-ido

「冥土通いの井戸」です この井戸から閻魔大王のもとへ通っていたわけです
新しい井戸(黄泉がえりの井戸)は 奥の新しい扉の向こう側です


6do-ido-up

「冥土通いの井戸」 ここから入って閻魔様のもとへ


しかし、ダメなものはダメなので みなさんといっしょに奥へ歩いて行く
新しい扉の向うに井戸があるにはありました。 
「冥土通いの井戸」から東に約10mの位置 「黄泉がえりの井戸」でございます


ですが、えーっと 石材の枠(井桁)に囲まれて直径30cm位の土管がありますが・・・・待ってください確か小野篁は
六尺二寸(186cm)の大男ではなかったか・・・10分前に説明があったばかりだ

しかし、小野篁ぐらいのスーパーマン的な人は「スッーと」なって30cmを通ってしまうのでしょう


「黄泉がえりの井戸」初公開 5月6日までです。 興味のある方はお急ぎ下さい


お寺を後にして西進 六波羅密寺はやっぱり混雑しています やっぱり今年はね!

大和大路を上がって四条通に・・・・・先日の事故の場所です
電柱の影に花が一輪だけ供えてあった 今でも多くの人が横断歩道を渡っている
自転車の方も犠牲になられたとのこと  他人事ではない 自転車乗りとして十分注意しなければ
犠牲になられた方に・・・・・・合掌・・・
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