雪丸の京都散歩2

雪丸号(自転車)に乗ってちょっとディープな京都をご紹介します

2012年02月

このブログに掲載されている文章・写真・画像・イラストなどの無断転載を禁じます。

旅する石碑

石碑といってもいろいろなタイプのものがある
道標・記念碑 公的なもの 私的なもの 意志を持って建碑される

石碑の探索の旬(時期)はいつだろうか・・・・ 答えは、晩秋~早春であろう

なせなら 都会(コンクリートやアスファルト)は別として草木が枯れている
時期は石碑が発見また観察しやすく 石碑に容易く近づくことが可能になるから・・・
単純な理由です(笑)

天候は、曇りが良い 天気がよく日が石碑に(特に一部)あたる場合 コントラストが強く
碑文が見えにくい。 磨耗が進んでいればなおさらです
写真を撮る場合にもNDフィルターなどの工夫が要ります


今回は、旅する石碑です。

最初は、「新開道路碑」
下京区花屋町通堀川西入  明治15年建立
大きさ 高140×幅90cm
堂々たる姿です

初めてこの石碑を見たとき 正直言ってなぜこんな場所に
建てたのか・・・・歩道上と大きさでかなりじゃまになる

石碑には、下記のことが書いてある

西本願寺周辺では,五条通と七条通の間に東西を横断する道路がなかったので 
遠回りでたいへん不便だった
そこで西本願寺と本圀寺の間に新しい道路が開かれた。

醒ヶ井通より大宮通に至るおよそ百九十間であり ほとんどが西本願寺と本国寺の境界である。
両寺と区長・三戸長が計画し,西本願寺法主が資金を提供した。

檀家の市原平兵衛も苦労して事業を監督した。
工事は明治14(1881)年8月から15年8月までかかった。その後だれもがこの道の恩恵に浴した。
この事業は仏教でいう済度の一端大いなる功徳である。
市原氏がわたし(筆者江馬欽)に碑文を描くように求めて,できあがった碑は路の傍らに設置した。
                        (フィールド・ミュージアム京都より抜粋)

皆さんの好意・協力で出来上がったりっぱな道路なので
歩道(路の傍ら)に石碑があっても大正解なのだ・・・納得です

tabisekihi-1

旧場所(元の場所) 
34/59/22.8 135/45/17.7 ±5m  日本測地系
以前は、花屋町通沿いで西本願寺の宗務所東門の東
歩道にありました(元の場所) かなりじゃま(?)になっていましたが
理由は、分かりませんが移動(旅)したのです

もしかしたら2011年 親鸞聖人750回大遠忌で大勢の信者の方が訪れるので
移動したのかもしれない・・・・(あくまでも私見です)

tabisekihi-2

34/59/22.6 135/45/19.7 ±4m  日本測地系
約50m移動(旅)した 新しい場所

しかし新しい場所は 良い感じにピッタっと収まっています
東に移動(旅)しました。 
新撰組でお馴染みの太鼓楼の北東角です

tabisekihi-3

下の台もいしょに来ています
坂なのできちんと水平を取ってありますね
始めからココが正解のように見えます



2本目は「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑です

平氏六波羅第とは
平氏一族が六波羅の一帯に築いた住居の総称です
最初は、平正盛が六道珍皇寺から土地を借りて屋敷を建てたのが始まりのようです

清盛時代には大集落になっていた
平家が都落ちして焼かれた のちに鎌倉幕府がここに六波羅探題を置いた。


六波羅探題とは
鎌倉幕府が京都に設けた出先機関。
範囲は、鴨川の東、松原通りから七条にかけて
当初は六波羅守護、六波羅南方(南殿)・北方(北殿)などと呼ばれた。

承久の乱(1221年)で幕府軍を率いて上洛した北条泰時・時房が戦後の処理にあたった
任務は朝廷の監視、反幕分子の抑圧と警察機構の行使、九州を除く西日本の統轄だった。

「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑は
洛東中学西門から5mくらい入ったところにあった
tabisekihi-4

「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑です。
34/59/34.0 135/46/35.1 ±5m  日本測地系

後日、気が付いたら工事が始まっていた 心配になりフェンスの隙間からのぞいて見たら
やはり石碑は見当たらない 
重機が多く投入されていていそがしく動いている
どんな施設に生まれ変わるのだろうか・・・・・石碑が心配です

後に調べて分かったが、統廃合で新しい学校になるようです
まあ学校だから廃棄にはならないと思っていた


その後、
六波羅蜜寺の前の道を自転車(雪丸Ⅲ)で南に下っていたとき
フェンスのそばに見覚えのある石碑が目に入り急ブレーキ
そうです すっかり忘れていた「平氏六波羅第・六波羅探題府址」だ

tabisekihi-5

「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑 六波羅蜜寺内
34/59/37.4 135/46/34.7 ±5m  日本測地系


無事でいてくれたのかと うれしく思い 写真撮影
お寺の写真を撮らないで石碑ばかりを何枚も撮影・・・かなり怪しげ(笑)
そんな怪しげ状態だったろうが 声を掛けていただいた

お寺の関係者ではないと思う  おそらくご近所の方
「その石碑 ここの前にそこの開睛館の門の横にあった」と教えていただいた

えっ、すると洛東中学→開睛館→六波羅蜜寺ということか
まさに旅する石碑ではないか

いや 折れた跡がある。交通事故か
最初に学校の中に建てられたのであれば傷がつくことはないだろう 
洛東中学もどこからか移動してきたのでしょうね


新しい道路ができたり道路の拡張などの道路工事 
破損なので忘れられてしまった石碑

このような石碑・石物は公共の施設(市役所や学校など)に移動することが多い
個人の土地に新しく建てるのは困難が伴うことは想像が付く
ゆえに公共施設へという図式になる

tabisekihi-6

東山開睛館

「洛東中学校」は,近隣の白川・新道・六原・清水・東山の5小学校と,
洛東・弥栄の2中学校と統合し,「東山開睛館」として新しく生まれ変わりました。
生徒の数が減ってきたせいだろうが 弥栄中学など歴史がある学校が閉校に
なったのは残念です
2011年4月5日 - 小中一貫教育校「東山開睛館」として開校

「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑は一体どこから来たのでしょうか
道標であれば大体 本来の位置が分かる しかしこの石碑は道標ではない
松原通あたりだろうか 

「平氏六波羅第」

現在の六波羅蜜寺の南の町名は三盛町・池殿町・門脇町がある

「三盛町(みつもりちょう)」の名はここに屋敷を構えていた平氏一門のうち、清盛・頼盛・教盛の兄弟がいたので
三盛という町名がついた

「池殿町(いけどのちょう)」の名は平頼盛邸の通称“池殿”と呼ばれていたのでついた

「門脇町(かどわきちょう)」の名は平教盛が住んでいた邸宅が六波羅の惣門の角にあったので門脇宰相と呼ばれた

まだある「多門町」 西に「西御門町」と「北御門町」

町名の名残からみても六波羅蜜寺からそんなに外れてはいないだろう


その他、平家関係として建仁寺勅使門・東福寺六波羅門
また泉殿と称した清盛邸は、今の豊国神社のあたりとも伝えられている
当ブログでご紹介した「積翠園」も平清盛の嫡男・平重盛の別邸小松殿の庭といわれています


かなり広大な場所になってしまったが
六波羅は平家の拠点地域となる



この旅する石碑は、六波羅蜜寺にやって来た 
六波羅蜜寺といえは 空也像か有名ですね
また平清盛坐像(清盛とされている)があり有名です(今年は特にですね・・・)

この石碑にはふさわしい場所なのかもしれない・・・とうとう安住の地を見つけた(笑)
六波羅蜜寺からもう旅することはないでしょう



「新開道路碑」と「平氏六波羅第・六波羅探題府址」

最初に建てられた場所(本来の場所?)と石碑の安住の地は どうやら違うようだ


京都白川 その②

三条通から白川の表情が変わる  ここから東大路までの白川は 
両側に道が付いていて明るい感じになる

白川橋のたもと左岸に当ブログ第1回でご紹介しました
延宝6(1678)年建立で京都市内で最古の道標があります
例の「京都為無案内旅人立之」の道標です

それでは三条白川橋道標から東側(左岸)を南へ下りましょう

shirakawa-2-2

川に下りることができます   白川夜船の船着場?(笑)

東梅宮並明智光秀墳道標が見えてきました ここから左に少し入ってみましょう
明智光秀首塚碑があります ご覧になってください(今回は省略させていただきました)


行者橋(通称) 正式には1本橋です
通称のほうが有名なようです(よくあることです)

この橋は、比叡山の阿闍梨修行で千日回峰行を終えた行者が、粟田口の尊勝院の
元三大師に報告し、京の町に入洛するときに最初に渡る橋です

地元のお年寄りの方は 行者様が使う橋なので渡らないと遠慮される方がみえるそうです
shirakawa-gyojya

橋の真ん中で町名が4つに別れています


古門前の親水テラスです 「ザ・京都」に1つですね
親水テラス+行者橋+柳=ザ・京都になるのでしょうか 殺人事件のロケには欠かせません(笑)

shirakawa-terasu

運が良ければ ロケに出会う可能性が・・・・・・
あっ、早朝ロケが多いそうです  早起きは三文・・・・・・・ですね(笑)

夏は、靴を脱いでテラスに腰掛けて足を川の中に・・・涼しいです
自転車で走り疲れたときに気持ち良いですよ(経験済)

テラスの向うの石橋を渡ると知恩院古門です


この先から東大路に向って西に行きます。
東大路を渡ると トイレがあり その前に門前白川道の道標があります
shirakawa-monzen

いい石碑です デカ文字・深掘りで存在感のある石碑です


有済橋を越えると白川は 直角に曲がります 南下して新橋に到着します
shirakawa-shin tatu

新橋から見た巽橋です
この新橋からは、再び「ザ・京都」になります

shirakawa-daimyou

辰巳大明神です ここから右に行けば石畳の新橋通 左は白川南通
一番良い雰囲気になるにはやはり夕方でしょうか
新橋通と白川南側、切通し沿いの町並みは
「重要伝統的建造物群保存地区」として指定されています

このあたりは京都特有の雰囲気があり年中 観光客が多いのですが
その中でも4月の桜 ライトアップもあり夜も観光客が多い

shirakawa-kanikaku

歌人の吉井勇碑です
11月のかにかくに祭では 観光客+舞妓はん+カメラマンで人が一杯 
通り抜けるのも一苦労します
『かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる』ですね

また6月の放生会にいたっては、阿闍梨様+お加持を受ける人+観光客
+舞妓はん+カメラマン+放流された金魚+それを狙う鳥さんで大騒ぎ(笑)


shirakawa-deguchi

最後は、疏水に混ざって鴨川に至ります


仁王門橋から三条通を越えて新橋へ白川南通を通って川端通 そして鴨川に
約1.5kmの道のりです。 ゆっくり見て歩いてても1時間もかかりません  

神社・仏閣巡りもいいですが たまにはゆっくり散歩もいかがでしょうか
春夏秋冬どの季節でもいいです
少し京都の見方が変わるかも・・・・・ですね

京都白川 その①

京都を代表する川は、もちろん鴨川や桂川ですが白川も忘れないでください

白川?? 名前をご存知ない方でも祇園の巽橋を流れている川といえば
お分かりかと思います

白川は一体どこから来るのでしょうか?

白川の源流は、以前 当ブログでご紹介した山中越えの黒サークルKの下(比叡山)あたりと 
もう一つおもな流れは 如意ケ岳いわゆる大文字山からです。

山中あたりは花崗岩地帯で谷間から流れ出た花崗岩の砂は白くきれいな砂です。
京都では白川砂と呼ばれています
谷も白川砂で白く見えます 「白川」の名前の由来はここからきています

山中越えを下ってきた流れは、北白川に入り 先回ご紹介した琵琶湖疏水分流を
パス(疏水が逆サイホン)してやがて京都動物園のあるところで琵琶湖疏水に流れ込んでいます
インクラインや琵琶湖疏水記念館のあるところです 噴水のあるところといえば
お分かりでしょうか

実質的には ここで白川の流れは終ってしまうのです
shirakawa-suna

流れ込みです 白い砂が堆積しているのが分かります
かなりの白川砂です そろそろ浚渫するのでしょうか


しかし、ここから440m下流 広道橋と近くに平安神宮の大鳥居のある慶流橋を越えてすぐ
仁王門橋で(疏水左岸)再び復活します
shirakawa-in

ここです 水門で流れを調節しています
この流れ込みのところにブルーギルを見ることができます
琵琶湖の生態系が来ています

それでは白川の流れに沿って南下して行きましょう

仁王門橋の左岸(東側)に石碑があります

shirakawa-sekihi

「白川と疏水を称える詩」です 読めますか

shirakawa-torii2

丹塗りの大鳥居と仁王門橋 右岸からです


朝早く 出勤・通学時間だったが この橋が大人気で皆さん渡っていました
このあたりは抜け道になっているのでしょうね
shirakawa-hashi-1

落ちそうで落ちない(笑)


shirakawa-nejirimo

川の中に藻が多くありましたので写真を撮っていると
近所の方が「ネジレモ」ですと 教えてくれました

帰ってから調べてみました 
ネジレモ「捻藻」と書き 葉は名前の通り、捻れるようにして成長して葉に茎が無く、葉は根元から直接伸びる
琵琶湖の固有種とありました
ここにもありましたね ブルーギルとネジレモ琵琶湖の生態系が疏水に乗ってやって来ています

前にも書きましたが、「本願寺水道」で紹介した東本願寺のお堀にいるブルーギル
関西電力墨染発電所(元インクライン上)や伏見港にもブルーギルが多数
恐るべし外来種 しかしブラックバスは見たことがない
なぜでしょうか?私が知らないだけかも(汗)です
ブラックバスよりもブルーギルの方が環境の順応能力が高いのでしょうか・・・・


shirakawa-38

三谷稲荷社です
以前、御神体が引越されたと聞いたことがありますが 
現在はどうなっているのでしょうか 分かりませんが
このお稲荷さん?は、一部マニアから人気があるようです
バレンタンイも近いので ご紹介します 
蝋燭台にハートマークがあるので恋愛成就のご利益アリとのウワサが・・・・・・
一度ご覧になってください



shirakawa-kofun

これぞ 路上芸術 しかも「古墳」が漢字です
画伯は、何歳でしょうか 気になります

残念ながら一ヶ月後におじゃましたときには消滅していました(あたりまえ)
今後、確認しなければ・・・・・・突然登場する
堀池橋西詰付近です 
運が良ければ路上芸術を見ることができます


石泉院橋まで来ました 白川沿いに道があるのはここまで
西に行っても東に行っても1本目の路地を南に下ると三条通です


三条通の白川橋から下流の鴨川までは次回の予定です
よろしくお願いします


「白川夜船」という言葉があります。
元は、京都旅行に行った または行ったふりをした人が
京都のことを聞かれて 「白河はどうだった?」と聞かれて
「白川は、船で下ってしかも夜だったので熟睡していたので分からない」と答えたのですが

(白河のことを白川と間違え知ったかぶりをしてしまった)
(白川は浅くて船で下ることができない)
2つのウソで 実際には見てないのに見たふりをすること,熟睡して何が起った分からないこと
という白川にちなんだ「白川夜船」という京都の俗諺があります


サイホン 琵琶湖疏水

京都市の水道事業は1912(明治45)年4月に蹴上浄水場から始まって今年創設100周年を迎える

創設100周年を記念して・・・という訳ではないのですが

今回は、琵琶湖疏水です



琵琶湖と京都の高低差を利用して 琵琶湖の水を京都で利用する
大事業でした

琵琶湖疏水と聞くとほとんどの方は、インクラインを思い出されるでしょう
線路が引いてあって船が台車に載って行ったり来たりした 桜の名所です。

それとも南禅寺の境内にあるレンガ造りの水路閣でしょうか
二つとも魅力的ですばらしい人間の智恵です。

しかし、今回ご紹介するのはインクラインや水路閣のように有名ではありません

南禅寺から分かれる「疏水分流」に注目しました


観光客の皆さんもたいへん大勢通られるのにほとんどの方が素通りです
それは銀閣寺の近くです。

今回は、南禅寺さんから出発しましょう。
北に向って歩きます。まもなく永観堂です。紅葉ですね説明は要りませんね超有名です

次は若王寺方面に行きます。まもなく哲学の道の登場です。左に行って哲学の道を北に上がります
石畳ですね 京都の市電の軌道に敷いてあった石の再利用です。

道の右下の流れに注目してください。
ご存知のように京都は、北が高く南が低いです。したがって京都の川は北から南に流れます。
しかしここ疏水分流は南から北方面(銀閣寺)に流れています。

当初の計画では ここに大型の水車をいくつも並べて動力を取り出す予定がありました
水力発電の技術の登場で実現しませんでした



哲学の道も京都を代表する観光スポットです
若王寺~銀閣寺までの約1.8km 

その間に大豊神社・霊鑑寺・安楽寺・法然院など上げればきりがありません
いずれの場所もすばらしく桜や紅葉の季節以外でも楽しめます

そろそろ哲学の道の終点です。銀閣寺橋に到着です。

南禅寺方面からきた疏水は「銀閣寺橋」で(多くの観光の方が渡る橋です。
東にまっすぐ行くと銀閣です)西を向きます。
疏水に沿って歩いて行くと銀閣寺交番があります。

目的地に到着しました。


交番の裏の疏水を見ても普通ですね 鯉がいると思いますが・・・・・
橋があります。川が流れています。そうですこれです川の流れが交差しています
地図を見ていただくと分かりますが 東から西に流れる琵琶湖疏水と
北から南に流れる白川が交差しています。交わることなく別々に流れています??????

疏水の水は、白川の下をくぐって流れているわけです
「逆サイホン」と呼ばれる導水技術です。
コーヒーでお馴染みの「サイフォン方式」その「サイホン」を「逆」にした技術です。

簡単な「逆サイホン」の説明図です
sosui zukai-1


銀閣寺方面から来た疏水は Aのようになります(銀閣寺交番裏)
鯉のいる場所に砂などが溜まるように 段差があります
段差を越えて流れます
一部は 左矢印のように脇に流れて下の白川に放流されます

sosui saihon in


sosui shirakawa

Bが「白川」の流れです  疏水から流れ出ている様子が分かります


sosui saihon out

Cが白川の下をサイホンでパスした流れです

sosui man

道路の脇にあるマンホールは 沈殿した砂や汚泥・ゴミを取除くためのものでしょうか


疏水記念館で 山科の毘沙門堂の手前の安祥寺川と疏水のように立体交差でなく
サイホンを採用したのか聞いたことがあるが 明確な答えをいただくことができなかった

まあサイホンの技術は古くからあるもので各地で採用されている

このサイホンでパスした琵琶湖疏水分流は北上して一乗寺方面で西に向う

以前は、その先にある高野川もサイホンでパスしていたが 現在は高野川に放流されて
実質的に途切れてしまっている

しかし、高野川の右岸に松ヶ崎浄水場がありここからの水で疏水が流れているようです
緩いカーブを描いて賀茂川に向う
途中、泉川と交差するが その交差に仕方に注目です
ここは平面交差です
これが結構面白いです うまく考えられています

sosui izumikawa


写真の下から上に流れているのが疏水  右から左に流れているのが泉川です
泉川の流れはコンクリートに仕切りに沿って右(賀茂川方面)に行く(緑の矢印)
もう一方は微妙な段差を落ちてまっすぐ流れていく(緑の矢印)

疏水は下から上に流れるが水位が低いときは(写真のように)左に流れる(泉川に合流)
水位が上ってくると上(賀茂川方面)に流れる
その後、疏水は西に向かい賀茂川をサイホン(復活)でパスして 
最近新しく整備された堀川へ流れて行く


説明が下手で申し訳ありませんが うまく考えられています 水量は泉川が優先のようです
泉川は南下して下鴨神社の東側を神社に沿うように流れて行きます
糺の森を流れている川です


一度、銀閣寺にお出かけになるときはご覧下さい

「行く川のながれは絶えずして、しかも元の水にあらず」です・・・・・・(笑)
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