石碑といってもいろいろなタイプのものがある
道標・記念碑 公的なもの 私的なもの 意志を持って建碑される
石碑の探索の旬(時期)はいつだろうか・・・・ 答えは、晩秋~早春であろう
なせなら 都会(コンクリートやアスファルト)は別として草木が枯れている
時期は石碑が発見また観察しやすく 石碑に容易く近づくことが可能になるから・・・
単純な理由です(笑)
天候は、曇りが良い 天気がよく日が石碑に(特に一部)あたる場合 コントラストが強く
碑文が見えにくい。 磨耗が進んでいればなおさらです
写真を撮る場合にもNDフィルターなどの工夫が要ります
今回は、旅する石碑です。
最初は、「新開道路碑」
下京区花屋町通堀川西入 明治15年建立
大きさ 高140×幅90cm
堂々たる姿です
初めてこの石碑を見たとき 正直言ってなぜこんな場所に
建てたのか・・・・歩道上と大きさでかなりじゃまになる
石碑には、下記のことが書いてある
西本願寺周辺では,五条通と七条通の間に東西を横断する道路がなかったので
遠回りでたいへん不便だった
そこで西本願寺と本圀寺の間に新しい道路が開かれた。
醒ヶ井通より大宮通に至るおよそ百九十間であり ほとんどが西本願寺と本国寺の境界である。
両寺と区長・三戸長が計画し,西本願寺法主が資金を提供した。
檀家の市原平兵衛も苦労して事業を監督した。
工事は明治14(1881)年8月から15年8月までかかった。その後だれもがこの道の恩恵に浴した。
この事業は仏教でいう済度の一端大いなる功徳である。
市原氏がわたし(筆者江馬欽)に碑文を描くように求めて,できあがった碑は路の傍らに設置した。
(フィールド・ミュージアム京都より抜粋)
皆さんの好意・協力で出来上がったりっぱな道路なので
歩道(路の傍ら)に石碑があっても大正解なのだ・・・納得です
旧場所(元の場所)
34/59/22.8 135/45/17.7 ±5m 日本測地系
以前は、花屋町通沿いで西本願寺の宗務所東門の東
歩道にありました(元の場所) かなりじゃま(?)になっていましたが
理由は、分かりませんが移動(旅)したのです
もしかしたら2011年 親鸞聖人750回大遠忌で大勢の信者の方が訪れるので
移動したのかもしれない・・・・(あくまでも私見です)
34/59/22.6 135/45/19.7 ±4m 日本測地系
約50m移動(旅)した 新しい場所
しかし新しい場所は 良い感じにピッタっと収まっています
東に移動(旅)しました。
新撰組でお馴染みの太鼓楼の北東角です
下の台もいしょに来ています
坂なのできちんと水平を取ってありますね
始めからココが正解のように見えます
2本目は「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑です
平氏六波羅第とは
平氏一族が六波羅の一帯に築いた住居の総称です
最初は、平正盛が六道珍皇寺から土地を借りて屋敷を建てたのが始まりのようです
清盛時代には大集落になっていた
平家が都落ちして焼かれた のちに鎌倉幕府がここに六波羅探題を置いた。
六波羅探題とは
鎌倉幕府が京都に設けた出先機関。
範囲は、鴨川の東、松原通りから七条にかけて
当初は六波羅守護、六波羅南方(南殿)・北方(北殿)などと呼ばれた。
承久の乱(1221年)で幕府軍を率いて上洛した北条泰時・時房が戦後の処理にあたった
任務は朝廷の監視、反幕分子の抑圧と警察機構の行使、九州を除く西日本の統轄だった。
「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑は
洛東中学西門から5mくらい入ったところにあった
「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑です。
34/59/34.0 135/46/35.1 ±5m 日本測地系
後日、気が付いたら工事が始まっていた 心配になりフェンスの隙間からのぞいて見たら
やはり石碑は見当たらない
重機が多く投入されていていそがしく動いている
どんな施設に生まれ変わるのだろうか・・・・・石碑が心配です
後に調べて分かったが、統廃合で新しい学校になるようです
まあ学校だから廃棄にはならないと思っていた
その後、
六波羅蜜寺の前の道を自転車(雪丸Ⅲ)で南に下っていたとき
フェンスのそばに見覚えのある石碑が目に入り急ブレーキ
そうです すっかり忘れていた「平氏六波羅第・六波羅探題府址」だ
「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑 六波羅蜜寺内
34/59/37.4 135/46/34.7 ±5m 日本測地系
無事でいてくれたのかと うれしく思い 写真撮影
お寺の写真を撮らないで石碑ばかりを何枚も撮影・・・かなり怪しげ(笑)
そんな怪しげ状態だったろうが 声を掛けていただいた
お寺の関係者ではないと思う おそらくご近所の方
「その石碑 ここの前にそこの開睛館の門の横にあった」と教えていただいた
えっ、すると洛東中学→開睛館→六波羅蜜寺ということか
まさに旅する石碑ではないか
いや 折れた跡がある。交通事故か
最初に学校の中に建てられたのであれば傷がつくことはないだろう
洛東中学もどこからか移動してきたのでしょうね
新しい道路ができたり道路の拡張などの道路工事
破損なので忘れられてしまった石碑
このような石碑・石物は公共の施設(市役所や学校など)に移動することが多い
個人の土地に新しく建てるのは困難が伴うことは想像が付く
ゆえに公共施設へという図式になる
東山開睛館
「洛東中学校」は,近隣の白川・新道・六原・清水・東山の5小学校と,
洛東・弥栄の2中学校と統合し,「東山開睛館」として新しく生まれ変わりました。
生徒の数が減ってきたせいだろうが 弥栄中学など歴史がある学校が閉校に
なったのは残念です
2011年4月5日 - 小中一貫教育校「東山開睛館」として開校
「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑は一体どこから来たのでしょうか
道標であれば大体 本来の位置が分かる しかしこの石碑は道標ではない
松原通あたりだろうか
「平氏六波羅第」
現在の六波羅蜜寺の南の町名は三盛町・池殿町・門脇町がある
「三盛町(みつもりちょう)」の名はここに屋敷を構えていた平氏一門のうち、清盛・頼盛・教盛の兄弟がいたので
三盛という町名がついた
「池殿町(いけどのちょう)」の名は平頼盛邸の通称“池殿”と呼ばれていたのでついた
「門脇町(かどわきちょう)」の名は平教盛が住んでいた邸宅が六波羅の惣門の角にあったので門脇宰相と呼ばれた
まだある「多門町」 西に「西御門町」と「北御門町」
町名の名残からみても六波羅蜜寺からそんなに外れてはいないだろう
その他、平家関係として建仁寺勅使門・東福寺六波羅門
また泉殿と称した清盛邸は、今の豊国神社のあたりとも伝えられている
当ブログでご紹介した「積翠園」も平清盛の嫡男・平重盛の別邸小松殿の庭といわれています
かなり広大な場所になってしまったが
六波羅は平家の拠点地域となる
この旅する石碑は、六波羅蜜寺にやって来た
六波羅蜜寺といえは 空也像か有名ですね
また平清盛坐像(清盛とされている)があり有名です(今年は特にですね・・・)
この石碑にはふさわしい場所なのかもしれない・・・とうとう安住の地を見つけた(笑)
六波羅蜜寺からもう旅することはないでしょう
「新開道路碑」と「平氏六波羅第・六波羅探題府址」
最初に建てられた場所(本来の場所?)と石碑の安住の地は どうやら違うようだ
道標・記念碑 公的なもの 私的なもの 意志を持って建碑される
石碑の探索の旬(時期)はいつだろうか・・・・ 答えは、晩秋~早春であろう
なせなら 都会(コンクリートやアスファルト)は別として草木が枯れている
時期は石碑が発見また観察しやすく 石碑に容易く近づくことが可能になるから・・・
単純な理由です(笑)
天候は、曇りが良い 天気がよく日が石碑に(特に一部)あたる場合 コントラストが強く
碑文が見えにくい。 磨耗が進んでいればなおさらです
写真を撮る場合にもNDフィルターなどの工夫が要ります
今回は、旅する石碑です。
最初は、「新開道路碑」
下京区花屋町通堀川西入 明治15年建立
大きさ 高140×幅90cm
堂々たる姿です
初めてこの石碑を見たとき 正直言ってなぜこんな場所に
建てたのか・・・・歩道上と大きさでかなりじゃまになる
石碑には、下記のことが書いてある
西本願寺周辺では,五条通と七条通の間に東西を横断する道路がなかったので
遠回りでたいへん不便だった
そこで西本願寺と本圀寺の間に新しい道路が開かれた。
醒ヶ井通より大宮通に至るおよそ百九十間であり ほとんどが西本願寺と本国寺の境界である。
両寺と区長・三戸長が計画し,西本願寺法主が資金を提供した。
檀家の市原平兵衛も苦労して事業を監督した。
工事は明治14(1881)年8月から15年8月までかかった。その後だれもがこの道の恩恵に浴した。
この事業は仏教でいう済度の一端大いなる功徳である。
市原氏がわたし(筆者江馬欽)に碑文を描くように求めて,できあがった碑は路の傍らに設置した。
(フィールド・ミュージアム京都より抜粋)
皆さんの好意・協力で出来上がったりっぱな道路なので
歩道(路の傍ら)に石碑があっても大正解なのだ・・・納得です
旧場所(元の場所)
34/59/22.8 135/45/17.7 ±5m 日本測地系
以前は、花屋町通沿いで西本願寺の宗務所東門の東
歩道にありました(元の場所) かなりじゃま(?)になっていましたが
理由は、分かりませんが移動(旅)したのです
もしかしたら2011年 親鸞聖人750回大遠忌で大勢の信者の方が訪れるので
移動したのかもしれない・・・・(あくまでも私見です)
34/59/22.6 135/45/19.7 ±4m 日本測地系
約50m移動(旅)した 新しい場所
しかし新しい場所は 良い感じにピッタっと収まっています
東に移動(旅)しました。
新撰組でお馴染みの太鼓楼の北東角です
下の台もいしょに来ています
坂なのできちんと水平を取ってありますね
始めからココが正解のように見えます
2本目は「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑です
平氏六波羅第とは
平氏一族が六波羅の一帯に築いた住居の総称です
最初は、平正盛が六道珍皇寺から土地を借りて屋敷を建てたのが始まりのようです
清盛時代には大集落になっていた
平家が都落ちして焼かれた のちに鎌倉幕府がここに六波羅探題を置いた。
六波羅探題とは
鎌倉幕府が京都に設けた出先機関。
範囲は、鴨川の東、松原通りから七条にかけて
当初は六波羅守護、六波羅南方(南殿)・北方(北殿)などと呼ばれた。
承久の乱(1221年)で幕府軍を率いて上洛した北条泰時・時房が戦後の処理にあたった
任務は朝廷の監視、反幕分子の抑圧と警察機構の行使、九州を除く西日本の統轄だった。
「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑は
洛東中学西門から5mくらい入ったところにあった
「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑です。
34/59/34.0 135/46/35.1 ±5m 日本測地系
後日、気が付いたら工事が始まっていた 心配になりフェンスの隙間からのぞいて見たら
やはり石碑は見当たらない
重機が多く投入されていていそがしく動いている
どんな施設に生まれ変わるのだろうか・・・・・石碑が心配です
後に調べて分かったが、統廃合で新しい学校になるようです
まあ学校だから廃棄にはならないと思っていた
その後、
六波羅蜜寺の前の道を自転車(雪丸Ⅲ)で南に下っていたとき
フェンスのそばに見覚えのある石碑が目に入り急ブレーキ
そうです すっかり忘れていた「平氏六波羅第・六波羅探題府址」だ
「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑 六波羅蜜寺内
34/59/37.4 135/46/34.7 ±5m 日本測地系
無事でいてくれたのかと うれしく思い 写真撮影
お寺の写真を撮らないで石碑ばかりを何枚も撮影・・・かなり怪しげ(笑)
そんな怪しげ状態だったろうが 声を掛けていただいた
お寺の関係者ではないと思う おそらくご近所の方
「その石碑 ここの前にそこの開睛館の門の横にあった」と教えていただいた
えっ、すると洛東中学→開睛館→六波羅蜜寺ということか
まさに旅する石碑ではないか
いや 折れた跡がある。交通事故か
最初に学校の中に建てられたのであれば傷がつくことはないだろう
洛東中学もどこからか移動してきたのでしょうね
新しい道路ができたり道路の拡張などの道路工事
破損なので忘れられてしまった石碑
このような石碑・石物は公共の施設(市役所や学校など)に移動することが多い
個人の土地に新しく建てるのは困難が伴うことは想像が付く
ゆえに公共施設へという図式になる
東山開睛館
「洛東中学校」は,近隣の白川・新道・六原・清水・東山の5小学校と,
洛東・弥栄の2中学校と統合し,「東山開睛館」として新しく生まれ変わりました。
生徒の数が減ってきたせいだろうが 弥栄中学など歴史がある学校が閉校に
なったのは残念です
2011年4月5日 - 小中一貫教育校「東山開睛館」として開校
「平氏六波羅第・六波羅探題府址」碑は一体どこから来たのでしょうか
道標であれば大体 本来の位置が分かる しかしこの石碑は道標ではない
松原通あたりだろうか
「平氏六波羅第」
現在の六波羅蜜寺の南の町名は三盛町・池殿町・門脇町がある
「三盛町(みつもりちょう)」の名はここに屋敷を構えていた平氏一門のうち、清盛・頼盛・教盛の兄弟がいたので
三盛という町名がついた
「池殿町(いけどのちょう)」の名は平頼盛邸の通称“池殿”と呼ばれていたのでついた
「門脇町(かどわきちょう)」の名は平教盛が住んでいた邸宅が六波羅の惣門の角にあったので門脇宰相と呼ばれた
まだある「多門町」 西に「西御門町」と「北御門町」
町名の名残からみても六波羅蜜寺からそんなに外れてはいないだろう
その他、平家関係として建仁寺勅使門・東福寺六波羅門
また泉殿と称した清盛邸は、今の豊国神社のあたりとも伝えられている
当ブログでご紹介した「積翠園」も平清盛の嫡男・平重盛の別邸小松殿の庭といわれています
かなり広大な場所になってしまったが
六波羅は平家の拠点地域となる
この旅する石碑は、六波羅蜜寺にやって来た
六波羅蜜寺といえは 空也像か有名ですね
また平清盛坐像(清盛とされている)があり有名です(今年は特にですね・・・)
この石碑にはふさわしい場所なのかもしれない・・・とうとう安住の地を見つけた(笑)
六波羅蜜寺からもう旅することはないでしょう
「新開道路碑」と「平氏六波羅第・六波羅探題府址」
最初に建てられた場所(本来の場所?)と石碑の安住の地は どうやら違うようだ