雪丸の京都散歩2

雪丸号(自転車)に乗ってちょっとディープな京都をご紹介します

2012年01月

このブログに掲載されている文章・写真・画像・イラストなどの無断転載を禁じます。

伊藤萬蔵 その③京都&郊外

引き続き伊藤萬蔵氏のお話です
以下の四ヶ所は、とくに思い出があります


最初は、京都府亀岡市の穴太寺(あなお) 寺標  大正8年3月
西国三十三観音 第二十一番札所です。

萬蔵は、仁王門 右側にあります。
しかし、違和感があります 新しいのだ 原因は交通事故(たぶん)
新しく作り直してある 普通なら作り直しは新しく寄進してもらうのでろうが
ここは忠実に再現されている 萬蔵の名と大正8年3月も元のままなのだ

itoman-anao

西国三十三観音 第二十一番札所 穴太寺の萬蔵寺標(新しい)


しかも門の内側に萬蔵碑の元碑が修理されて建っている
捨てられてしまう元碑が 完璧に保存されている(完コピです)
itoman-anao kyu

旧萬蔵寺標・・・・おそらく交通事故

感心する。感動した。こういったお寺もあるのだと・・・・・感謝&合掌



京都府八幡市の岩清水八幡宮
そうです吉田兼好「徒然草」第52段に登場しますね 山の上にあります。

萬蔵を確認に行った 手がかりは「常夜灯」だけ・・・・・
八幡宮に着くと 常夜灯の数に驚いた 一体どれくらいあるのだろうか
本殿に続く参道だけ見ても・・・徒然草ではないがまだ麓にも その途中にもある
「心が折れた」(笑) 
itoman-8toro


帰宅してから一宮のY氏を通じて田野尻氏に聞いていただいて場所を教わった

しかし、どうして「常夜灯」とあるだけなのに分かったのか調査方法を質問してみた
回答は、1本1本確認したとのこと・・・・・こちらにも感心する。感動した。
まさに「先達はあらまほしき事なり」


三ノ鳥居の少し本殿に向った石畳に自然石が埋められています
通称「一個石」と言います。別名を「亀石」「お百度石」とも呼ばれています
お百度参りの起点となっているようですが それにしても本殿まで
距離が長い・・・・・時間がかかりそうです・・・相当気合がいります


説明が長くなりましたが その一個石の斜め右前方に御鳳輦舎があり
その南側奥に目指す萬蔵常夜灯があります
itoman-8toro-2

萬蔵常夜灯です
34/52/28.0  135/42/12.3 ±5m 日本測地系

八幡社つながりで九州の総八幡社の宇佐八幡宮に出かけた
参拝が目的で訪れたが 萬蔵探索も兼ねて・・・・・・・・・

太宰府天満宮にあるのだから宇佐八幡宮にもあるはずです・・・・かも

しかし、限られた時間だったので ざっと調べてみたが見つからない
調査対象が多すぎる
萬蔵探索専門で調査してみたいものです 1日では足らないと思いますが・・・・



京都市伏見区の誕生寺です 大正8年5月の寺標があります

誕生寺の萬蔵の発見は、揚谷寺の寺標を確認に行く途中のまったくの偶然だった。
車中から偶然発見した。2009年9月8日の朝  府道水垂上桂線

itoman-tanjyo

34/56/30.2  135/44/10.9 ±5m 日本測地系
写真 位置データを取り 一宮市のY氏を通じて田野尻氏に確認していただいたところ
萬蔵新寄進物と確認された  

誕生寺は、まったく知らなかったが 萬蔵氏が縁で知ることになりました

曹洞宗の開祖道元禅師の誕生した地として(諸説アリ) 1919年(大正8年)に
永平寺の日置黙仙禅師が仮本堂を建立して越前の妙覚寺を移した。
萬蔵氏の寺標は、大正8年5月なので この時の寄進と思われます

1941年(昭和16年)寺号を誕生寺と改名し、1982年(昭和57年)から本堂などが再建され
現在に至る

itoman-tanjyo-2

妙覚寺の文字が埋められ(消され)ている

妙覚寺の文字が埋められ(消され)ているのは こういった事情からでしょう
「誕生山 妙覚寺」 → 「妙覚山 誕生寺」に変更されて 
萬蔵氏の寺標も消されて後向きになったのでしょう
廃棄されなかったのが幸いでした(再利用)




京都では、やはりここですね 東寺です。
「身は高野、心は東寺におさめおく」ですからね
弘法大師に心酔していただろう
萬蔵氏もここだけは力を入れて寄進したのでしょう

香台が三ヶ所  金堂・講堂・食堂の前に置かれています
ここの香台は、一度はご覧になったことがあると思います
堂々たる姿 大きさ・加工どれをとっても No.1寄進物でしょう(私見です)
 
下世話な話ですが 一体金額は・・・・でしょうか(笑)
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金堂前の香台

itoman-toji-kon2

金堂前の香台と五重塔


あと一ヶ所は、大師堂南にある香台です。
仏頂尊勝陀羅尼碑前にあります。・・・いやありました

「尊勝陀羅尼碑は叡山の願海が北野天満宮 宗像社のそばに嘉永6年(1853)に
建てられ慶応4年(1868)神仏分離令によって東寺に移された」 東寺の駒札より

1853年の建立時、萬蔵は20歳で陀羅尼碑と香台がセットとは考えにくい
東寺に移された時に 東寺にすでにあった何かの前にあった香台を
陀羅尼碑の前に置いたのか・・・・・
食堂 講堂 金堂の香台は寄進時期は大正13年と14年 時期がかなり違っている。

itoman-toji5

その陀羅尼碑の前 香台が一時無くなってしまった
無くなった時期は不明ですが2010年5月に無いことに気付いた

東寺のどの部署のどなたにお聞きしたらいいのか
まったく分からないので住職室の前で出待ちした(笑)・・・・・

しばらくすると(5分くらいだったが)僧侶の方が出てみえた

萬蔵香台が陀羅尼碑の前にあったときの写真と萬蔵香台のアップの写真を用意

資料(写真など)と伊藤萬蔵の紹介をさせていただき なぜ香台が無くなったか
僧侶の方に質問してみた

すると「陀羅尼碑の回りを触りながら回り易いように整備した」とのことでした
そのときに香台は取除いたようです
香台があったことはご存知でしたが伊藤萬蔵のことはご存知なかった。

それに陀羅尼碑の並びには 10点ぐらいの石造物があり その前に置いてある
香台やローソク立てなどは 本来どれのものかは不明で移動した可能性があるとのことでした

しかし香台が無くなっているのは事実なので 
有名な寄進者として再度、萬蔵のことを説明すると「調査してなるべく元に戻すようにする」
との回答でしたので 今後追跡調査の必要があると思っていた


2010年8月1日 東寺に行き確認できました  復活です うれしい限りです 
尊勝陀羅尼碑から西に15m位の「南無大師遍照金剛碑」です
その前に ロウソク立てが取り外され 足も確認できます
あらためて東寺の方々に御礼申し上げたい・・・・・合掌

itoman-toji-4-2

南無大師遍照金剛碑は天保2年1831年 建立
北野元願成就寺境内建  

北野経王堂願成就寺のことなのか?それなら「応永八年(1401)に北野社(北野天満宮)の
社頭西に東山の三十三間堂の倍半という大堂を建立し「北野経王堂願成就寺」と名付け
毎年十月、十日間にわたって万部経会及び経典書写などの仏事を行い
供養しました」とのことらしいので
尊勝陀羅尼碑と同じ運命(神仏分離令)で東寺に来たものなのかもしれない
34/58/41.3  135/44/57.5  ±3m 日本測地系

南無大師遍照金剛・・・・・七反



以上が、今のところ確認した萬蔵寄進物ですが
京都にはまだまだあると確信しています

捜索のポイントは、弘法大師に関連した所、有名寺院・神社・観音様・旧街道沿いも
可能性があると聞いた


西国三十三観音札所には ほとんど寄進物が存在する
そうなると
〇六波羅蜜寺 西国三十三観音十七番 
〇醍醐寺
 (上醍醐 准胝堂) 西国三十三観音十一番 

上記の二ヶ所では 今だ発見されていない


あと西国三十三観音札所関係では 
〇華頂山 元慶寺(山科区) 西国三十三観音番外 
ここも以前一度調査したが今だ発見されていない


〇松尾寺 京都府舞鶴市 寺標  西国三十三観音二十九番
〇成相寺 京都府宮津市 寺標  西国三十三観音二十八番
この二ヶ所は確認されていますが
 私自身確認に行っていません


比叡山・・・・・・うーん こちらにはないかも・・・・・
三井寺(滋賀)にはある。
円仁派延暦寺(山門)VS円珍派三井寺(寺門)・・・・・考えすぎ推察でしょうか(笑)

しかし、安心してはいけません
萬蔵氏の墓所は、名古屋市昭和区の誓願寺
このお寺は、浄土宗法喜山誓願寺で元亀3年(1572)信長の頃、清洲に建立され
その後、名古屋城下の白川町に移り、戦災に遭い今の地に再建された。

開祖が比叡山の桜を境内に植え、桜とともに歴代繁栄したので、桜誓願寺と呼ばれている。
出てきましたね「比叡山」・・・・・やはり怪しい(笑) 調査が必要ですね


同じ名前つながりで中京区新京極通の
浄土宗西山深草派の総本山の誓願寺はどうだろうか
何度もおじゃましているが「猫さん」の記憶のみ 再調査ですね


東寺にあって仁和寺にある・・・・・・・うーん 
そうなると北区西賀茂の神光院(太田垣蓮月の)が怪しいと・・・
残念ながら未発見です


最後に
愛宕神社 絶対怪しいのですが 登りながら1本1本確認するのは・・・きつい
あとは皆様の直感と卓越した臭覚(笑)で見つけ出していただきたいです


これからも萬蔵探しは続いてゆく・・・・・

石碑や石物探索には今の季節がベストシーズンです(雑草がなくなる)

当ブログをご覧いただいている方は 京都が好きな方 京都の達人の方が
大勢いらっしゃると思います
そこでみなさまの力をお借りしようと公開捜査(誘拐事件?笑)に踏みきりました


京都市付近で「伊藤萬蔵」を発見または ご存知の方はぜひお知らせ下さい
よろしくお願い致します




モルガンお雪

今年も1月20日が近づいてきました
「玉の輿の日」


伊藤萬蔵 その③京都は、次回でお願いします


そこで今回は、「モルガンお雪」のお話です

モルガンお雪さんとは どんな人?

モルガンお雪さんとは本名は加藤ユキ 1881(明治22)年生まれる
姉が、祇園でお茶屋兼置屋『加藤楼』を経営していました。
その縁で14歳で芸妓となる。芸妓名は「雪香」


舞踊が上手く胡弓がとくに得意だった 年を重ね21歳の頃には
彼女にも京都大学に通う彼氏がいた  
一説によると彼の学費・生活費を払って面倒をみていたようです。
結婚を夢見ていたのでしょうね

そんなときアメリカ人のジョージ・モルガンの登場となります
雪香(お雪)のことをすっかり気に入ってしまったのです
モルガン家の御曹司・大金持ちです

そのモルガン氏から求婚された
さあ大変!世間はこの話で大盛り上がり 騒ぎが大きくなり
彼氏とも別れてしまった

その後、当時4万円という莫大な身請け金によりモルガンに
身請けされ1904年(明治37年)に横浜にて結婚

当時4万円 現在の金額に換算すると1億円程度言われている
一説には2億円とも どのみち破格の身請け金

結婚式が派手すぎてかえって世間の評判になった
羨望の目で見られるが 金に目がくらんだ女と嫉妬の目でも見られた
  
妾ではなく正妻だったので驚きも羨望も嫉妬も倍増で
大騒ぎになって誹謗中傷も多く受けたでしょうね


モルガン氏とアメリカに渡った雪さんは、幸せな結婚生活を送ったのでした。
めでたし めでたし・・・・
とはならなかった そのことは容易に想像できる

大金持ちの御曹司が日本という国へ遊びに行って女を連れて帰ってきた
しかも日本人  そして正妻として・・・・・・

親戚一族は、ワケの分からん女を突然連れて帰ったと大反対したでしょうね
しかも当時のアメリカは人種差別が激しかった(今でもか・・)

そんな差別や好奇の目から逃れるため
すぐにパリへ渡った 
パリの社交界では大変な評判になったが 1914年第一次世界大戦勃発 

そしてモルガン氏が1915年(大正4年)結婚して10年目に亡くなってしまう 
莫大な財産を残して・・・・・・モルガン43歳 
その後、日本(京都)に帰る 
伝説の玉の輿芸妓の帰国である 結婚当時と同じように大騒ぎに
しかし「金に目がくらんだ女」とささやかれ世間の冷たい視線にさらされる


1939年第二次世界大戦勃発と歴史の波にのまれてゆくお雪さん
キリスト教の洗礼を受け、以後は一カトリック信者として世間から身を潜めるように
質素な生活を続け、1963(昭和38)年、京都の紫野の近くの自宅で亡くなる
その生涯はまさに波瀾万丈でした。 享年81歳


第二次世界大戦中には夫の友人を通じて「京都は世界の宝、京都を焼かないで」と訴え
そのために京都はB29の爆撃を受けなかった と言われた伝説まで誕生したようです

お雪さんが結婚した1月20日を「玉の輿の日」といわれています


簡単ですが以上、モルガンお雪と呼ばれた 加藤ゆきさんの紹介です
今でも京都でモルガンお雪関係の場所がありますので見てみましょう


1963年に紫野(京都市北区)の大徳寺門前の小家で死去
小家は、確定できないので大徳寺前から出発した

雪丸とともに緩やかな坂を上ってカトリック衣笠(きぬがさ)教会を目指す
金閣寺の近く左大文字山のふもとにあります

morugan-kinu

カトリック衣笠(きぬがさ)教会
聖堂としては京都初のコンクリートの建物。お雪さんの寄付によって建てられた
この寄付の話は、彼女の意思で彼女が亡くなるまで秘密になっていたようです


モルガンお雪の墓所(分骨された)に向います
教会の横の道を西に向かい突当りを右へ 目指す墓地はカルメル会修道院方面に
坂を上って行くのだか「私有地につき立入りをご遠慮ください」の看板

時間は朝の8時 通学時間です 衣笠修道院の方でしょうか 子供たちを送り出している
奥のカトリック墓地に行きたい旨を告げると 「坂なので気を付けて」との返事
本当に凄い坂道 これには閉口した 
雪丸に乗りながら上って行く・・・なんて絶対に無理(笑) 押してでもかなりキツイ(汗)

「この坂を~登ったら~右に行き~木があります・・・・・・・」この歌が頭に浮かぶ
分かる人には分かる(笑)
最近 坂になるとこの歌が・・・大文字でも(笑&汗)

途中 左大文字の上り口があります(ここからは上れません)
カルメル会修道を過ぎると信号があります 墓地への道が狭いためです

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カトリック墓地は結構広いです。誰もいません 静かです
地図があり「ユキモルガン」とある
2段目の奥を目指す きれいに整備された墓地です

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テレジア ユキ モルガン 1963年5月18日帰天  
帰天・・・・・なるほどローマ・カトリック教会ですか
35/02/25.0  135/43/51.4  ±5m 日本測地系

墓地から急坂を降りてくると(下りも自転車に乗っては危険 とくに雪丸はセミスリックタイヤ)

先程の方が、掃除をされていて無事に墓地に着けたか聞かれた
なんでもカトリック墓地には イノシシがよく出没するそうです

大丈夫だった旨を告げて御礼を言って場を離れた
「先に言って欲しかった」と思いつつ・・・・・・・・・(笑)


教会では、お雪さんが帰依していたカトリック高野教会もあります
洗礼名はテレジア
morugan-takano

カトリック高野教会


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中京区には、雪さんが一時住んでいた住居跡 
現在は京都五行というラーメン屋さん
35/00/07.5  135/46/00.4  ±5m 日本測地系


祇園ではお茶屋「加藤」が現在も営業されています
白川南通と新橋通が交わる新橋東詰です
morugan-kato

祇園巽橋と辰巳大明神のある場所で 夕方この付近にいると
雪香さんとすれ違うような錯覚に・・・・・
そんなザ・祇園と思えるような場所ですね


最後は、加藤家の墓所です
morugan-katohaka


東福寺 塔頭 同聚院に眠っています
同聚院あの仏師・定朝の父 康尚の不動明王があるお寺です
morugan-katohaka2

34/58/31.8  135/46/30.2   ±5m 日本測地系


皆さんも機会がありましたら
モルガンお雪さんを偲んでお出かけください


次回 伊藤萬蔵 その③京都 です
よろしくお願いします



伊藤萬蔵 その②京都

先回に続きまして伊藤萬蔵です


京都に行く機会が多いので京都市を中心として確認・探索を始めた
しかし、ご存知のように調査対象数が多すぎです


最初に今までに京都市周辺で確認されている「伊藤萬蔵寄進物」を
ご紹介します。
みなさんもご覧になったことがあると思います

〇京都市左京区      禅林寺(永観堂)  燈籠  御影堂前  大正2年

〇京都市右京区      清涼寺       花壷  本堂前  大正15年
                仁和寺       花壷  御影堂前  大正14年

〇京都市中京区      行願寺(革堂)   香台  寿老人堂前  西国三十三観音十九番
                頂法寺(六角堂) 寺標  西国三十三観音十八番  明治34年3月 

〇京都市東山区      今熊野観音寺 花壷  本堂前  西国三十三観音十五番
                清水寺 常夜灯 三重塔前西国三十三観音十六番  明治
                知恩院 花壷   法然廟所へ上る石段  大正13年
                八坂神社 常夜灯 悪王子社前  明治27年2月
                           尾張国名古屋市塩町四丁目
                          

〇京都市下京区      延寿寺 寺標

〇京都市南区        東寺 4ヶ所   香台×2講堂前  大正14年6月 香台×1食堂前  大正13年12月
大師堂前

〇京都市西京区      善峰寺 寺標  西国三十三観音二十番  大正2年5月

〇京都市伏見区      誕生寺 寺標  大正8年5月

〇京都府宇治市      三室戸寺 花壷  本堂前  西国三十三観音十番

〇京都府八幡市      岩清水八幡宮  常夜灯  明治28年3月
                 円福寺   寺標   明治43年

〇京都府長岡京市     粟生光明寺   花壷   大正13年7月
                揚谷寺  寺標 滋眼視衆生・具一切功徳 大正15年12月

〇京都府亀岡市      穴太寺   寺標   西国三十三観音二十一番  大正8年3月
 

この京都萬蔵リスト19ヶ所のうち主だったものをご紹介します


西国三十三観音 第十八番札所 頂法寺 一般的には六角堂
あの聖徳太子・親鸞聖人・池坊の六角堂です
六角通の門をくぐると左に寺標があります 萬蔵です
京都にある萬蔵の中で最も危険なものです・・・・いや危うい

itoman-6kaku

剥落が進んでいて中が少し青みがかっているので笏谷石か来待石か分かりませんが
凝灰岩質砂岩のようであり いわゆる表面が剥落してのっぺらぼう碑になるパターン
萬蔵の書体も違う  書体見本を示さずに石工に依頼したのであろうか 
保存が気に掛かる萬蔵です


花壺も結構ありますが 代表格は 知恩院の本堂東側から
法然上人の廟所に上って行く石段に一対あるものでしょう
itoman-chion kaidan


itoman-chionin

堂々たるものです 35/00/07.3  135/47/13.2  ±5m 日本測地系 



西国三十三観音 第十九番札所 行願寺 一般的には革堂と呼ばれる
寺町通に面してお参りの方が絶えません
itoman-kodo

ここの萬蔵は入って左に行った寿老人堂前の香台です 全国的には
この形はよく見ることができます


八坂神社にある悪王子社前の向かって左側の常夜灯です
35/00/01.4  135/46/54.3  ±5m 日本測地系

itoman-yasaka

尾張国名古屋市塩町四丁目  尾張国と入っている
明治27年2月建立 
明治27年・・・・・名古屋市 もうこの年に「市」だったのか?
確かに1889年(明治22年)10月1日 - 市制施行により名古屋市となる・・正解でした
萬蔵の書体も違う  書体見本を示さずに石工に依頼したパターンか
このタイプの常夜灯は デカ文字・深堀には狭いので
下の基礎部分に横書きに入っているものも多くある


東寺・岩清水八幡宮・穴太寺・誕生寺のご紹介は次回で・・・・・
伊藤萬蔵はまだまだ続く・・・・・よろしくお願いします


ここで【石物寄進者メモ】

道標など石物寄進では
京都には「三宅碑」があります 三宅安兵衛・清治郎親子
こちらも 寄進に至る経緯には物語り有です

京都市の三宅碑は、ほぼ確認しましたが
他は(八幡市など)まだまだです


三重県の四日市には「田中音吉」 亀山製絲株式会社
音吉の確認も途中のまま


四国には八十八ヶ所の「中務茂兵衛」
江戸時代末期19歳の時に四国遍路を思い立ち,大正11年に78歳で亡くなるまでに
八十八ヶ所を280回も巡ったといわれています。
亡くなった時も281回目の遍路の途中だったそうです 総距離約40万キロ

中務茂兵衛も専門的に研究したいものですね・・・触手が伸びそう

萬蔵+茂兵衛で四国に 巡礼の旅に出掛けたいものです
倍以上の時間・・・いやそれ以上の時間が掛かってしまいそうです(笑)
2012年は4年に 一度の逆打ちの年 うるう年の逆打ち・・・・・どうしましょうか

「三宅安兵衛・清治郎親子」 「田中音吉」 「中務茂兵衛」検索してみてください
いわゆる 詳しくはwebで・・・・・です

ハマッテしまっても当方は責任を取りません(笑)

伊藤萬蔵 その①

今回は、伊藤萬蔵氏の寄進物についてのお話です

伊藤萬蔵とは 誰でしょうか?

伊藤萬蔵氏とは天保4年(1833)年正月、尾張国中島郡平島村(現一宮市丹陽町平島)に生まれる。
名古屋城下にて米取引によって財をなした。明治以降は、株取引などで巨万の冨を得た。

そんななか 明治13年(1880)から没年にわたり
神社仏閣・街道などに寺標・燈籠・香台・花壺・常夜燈・石仏・道標など
寄進を重ねることを生きがいとした人物です。

萬蔵氏の年齢にすると47歳~95歳の47年間です。

昭和2年1月28日(1927)九十五才で亡くなる
戒名は「寿照院観空徳山居士」、墓所は、名古屋市昭和区の誓願寺 


ここまでの話ですと どこにでもあるといっては語弊があるが
社寺等に寄進されている方は大勢いる  
というより だいたいの方は、寄進(お布施)を経験されているのではないでしょうか


しかし、伊藤萬蔵氏の寄進はあまりにもスケールが違いすぎる

我地方の「尾張の寄進王」と言っても過言ではないでしょう 
いや石物の寄進では日本一かもです

地元の社寺はもちろんのこと
西は、滋賀・京都・奈良を始め四国八十八ヶ所・中国地方を通ってなんと九州大宰府天満宮

東は、神奈川 川崎大師   その他に福井の気比神宮・永平寺  新潟佐渡 
長野善光寺  和歌山高野山など たくさんある
それもそのはず現在確認されているもので480点余 凄い数である
驚くのは、早い・・・・・一説には1000点はあるだろうと・・・


萬蔵にハマッタほとんどの方は 神社や寺院に出掛けると
なぜか「名古屋市(西區)塩町 伊藤萬蔵」よく見かける
いったい「伊藤萬蔵」とはどんな人物なのだろうか?・・・・・・・
この辺がスタートのようです 

伊藤萬蔵氏の寄進物を追跡・研究・探索されている方は、何人かみえます
まだまだ一般には知られていません

そんななか 昨年2011年10月1日「石を贈った男」という題で中日新聞に掲載された
また本が出版されたり少しづつ認知されてきたようで うれしく思っています

itoman 2011-10-1

萬蔵顔写真 (中日新聞より)


私の知る限り伊藤萬蔵研究の第一人者は田野尻弘氏であろう
(新聞に掲載されたのでお名前を出すことをお許し願いたい)
私の伊藤萬蔵関係のデータは、ほとんど田野尻氏からのものです

寄進物のリストも田野尻氏調査を一宮市のY氏が改変したものを使用させていただいます



しかし萬蔵氏は、なぜ寄進を始めたのでしょうか?

失礼ながら寄進物は送り主がデータを失くしてしまうと 寄進を受けた方にはほとんど記録がありません
伊藤萬蔵の場合も遺族の方にお会いしたり石工のデータを探したりご苦労されたそうです
しかし、完全ではなく まだまだ多くが行方不明なのです

私自身もある神社で聞いたことがあるが 世代が変わってしまうと なぜここに寄進されたか
寄進された理由は分からなくなる



ヒントの一つに「田野尻弘氏の個人誌「萬蔵報」2005年2月号」の中に
巨万の冨を得たのは「神仏や世間様のお陰」として全国の有名社寺に対して
石造物の寄進を続け、感謝の日々を送った。とある

しかし、それだけの理由でこれだけの寄進を続けることができるのだろうか

これだけ寄進物が多いと当時は、神社仏閣でウワサになったのではないだろうか
「ウチにもぜひ一つお願いしたい」・・・があったにちがいない
寄進方法も 個人で・二人で・連名でなどのパターンもある

何かに とり付かれたような信仰の証の寄進物の数々・・・よほどの決心と決意があったのだろう
まぁ 常人の考えでは計り知れないのが伊藤萬蔵であり 魅力なのである


そんな萬蔵の魅力に引きつけられた友人が萬蔵探しを始めた 
それにつられて自分も・・・・・

萬蔵氏が、このまま歴史(時間)の中に埋もれてしまうのは忍びない
こんな感じで 萬蔵探しが始まって それ以来、萬蔵とかかわりあうようになった

寄進物リストを友人と愛知・岐阜・三重等の「萬蔵」を確認に回った・・・・・現在も・・・・
とくに友人は、知多四国八十八ヵ所すべてを確認に行った

私も太宰府天満宮は確認に行った

現在も萬蔵研究(探索)の末席に加えさせていただいている

itoman-3hon

名古屋市西區塩町
デカ文字&深堀文字が基本 書体はいろいろあるが基本はこれ


私自身京都に出掛ける機会が多いので
京都市を中心として「萬蔵」を追っかけ・探索しています

京都における伊藤萬蔵は次回に!・・・・お楽しみに!・・・・

2012 おめでとうございます

明けましておめでとうございます

tofukuji-ryu.jpg
東福寺 堂本印象



今年も雪丸とともに京都の街を走り回ります

「雪丸の京都散歩」 2012年もよろしくお願い致します


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