改正消防法
明日(6月1日)からすべての家庭に火災報知器の設置が義務化になります
お忘れなく
京都では、大火と呼ばれる火災(大火事)が何度かあり
なかでも有名?なのは「天明の大火」と言われる大火事です
京都の歴史上最大の大火といわれる「天明の大火」(団栗焼け)は
江戸時代、天明8年(1788)、1月30日早朝、鴨川の東岸、
宮川町団栗辻子(どんぐりのずし)の民家(宮川町団栗新道角の両替商の空き家)から出火し、
(現在の四条川端下ル付近)
火は宮川筋に南下、さらには折からの強風にあおられ、鴨川を越えて対岸に飛び火した。
洛中の寺町通高辻にあった永養寺に飛び火して そこから北と南、西へも延焼して
2昼夜にわたって燃え続けた
燃えた範囲は鴨川の東から、北は鞍馬口通、南は七条通、西は千本通の内までで、
類焼した町数は約1400町、市街地人口の5分の4
洛中のほぼ九十パーセントが焼失して焼け野原になった。
出火原因は放火らしい
幕府の公式発表は、焼失家屋は3万7000軒・寺院201・神社37・死者は150人以上らしいが
(御所、二条城、東西本願寺などの大規模な建築物を含む)
正確なところは分かっていません
実際は死者だけとっても2600人を超えたという説もありです
これだけの大火でありながら、天明の大火に関する史跡はあまり残っていないようです。
その中、
円通寺 鴨沂高校の東
天明の大火の犠牲者を供養する石碑があります。
「為焼亡横死(しょうぼうおうしのため)」とあります
少し分かりにくいですが本堂の右側です
35/00/58.9 135/46/23.2 ±5m
為焼亡横死碑です
もう一つは「清浄華院(しょうじょうけいん)の供養塔」
「横死焼亡百五十人之墓」と記されている五輪塔(高さ約3m)と
すぐ左に石碑があります
大火の後、3月24日から7日間、施餓鬼供養が行われたということです
(どんどん焼けのときも天明の大火七十七回忌をかねて
犠牲者供養法要が行われた)
35/01/19.8 135/46/15.8 ±4m
清浄華院では今回の震災にあたって法然上人800年大遠忌法要を来年春に延期して
震災物故者追悼法要がおこなわれました。
説明の碑
なお、天明の大火の際に御所の西にある新在家門は、普段は開かずの門だった。
この大火の際に開門されたことから、火にあぶられて蛤の口が開いた様にたとえられ
以後「蛤御門」と呼ばれるようになりました
その「蛤御門」の名の付く 元治元年(1864) 蛤御門の変による戦闘の火災です
こちらも有名ですね 「元治の大火」
文久三年の政変(八月十八日の政変)・長州藩士の追放と七卿落ち・池田屋事件に連なる
長州藩が勢力回復をねらい、三家老が兵を率いて上洛、会津・薩摩・幕府連合軍と
京都御所蛤御門・堺町御門附近で戦い、長州藩は敗北。
京都の中心部が激戦地となったために、市中はたちまち猛炎に包まれ、
民家や社寺などを焼き尽くす大惨事となりました。
長州藩邸や堺町御門から出た火が、手のほどこしようもなく燃え広がるありさまを
京都の人たちは「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと称しました。
普通の火災(普通という表現が正しいのかは疑問です)いいかえれば失火(過失)の火災ではなく
人為的(人災)な火災 焼け出された京の人々の心情はいかがなものであったでしょうか
何もかも失う しかも京都に住んでいる人ではない人々によって・・・・
とにかく「火廼要慎」です。 今年も愛宕神社に・・・・・・・・・・・・・・行かねば
明日(6月1日)からすべての家庭に火災報知器の設置が義務化になります
お忘れなく
京都では、大火と呼ばれる火災(大火事)が何度かあり
なかでも有名?なのは「天明の大火」と言われる大火事です
京都の歴史上最大の大火といわれる「天明の大火」(団栗焼け)は
江戸時代、天明8年(1788)、1月30日早朝、鴨川の東岸、
宮川町団栗辻子(どんぐりのずし)の民家(宮川町団栗新道角の両替商の空き家)から出火し、
(現在の四条川端下ル付近)
火は宮川筋に南下、さらには折からの強風にあおられ、鴨川を越えて対岸に飛び火した。
洛中の寺町通高辻にあった永養寺に飛び火して そこから北と南、西へも延焼して
2昼夜にわたって燃え続けた
燃えた範囲は鴨川の東から、北は鞍馬口通、南は七条通、西は千本通の内までで、
類焼した町数は約1400町、市街地人口の5分の4
洛中のほぼ九十パーセントが焼失して焼け野原になった。
出火原因は放火らしい
幕府の公式発表は、焼失家屋は3万7000軒・寺院201・神社37・死者は150人以上らしいが
(御所、二条城、東西本願寺などの大規模な建築物を含む)
正確なところは分かっていません
実際は死者だけとっても2600人を超えたという説もありです
これだけの大火でありながら、天明の大火に関する史跡はあまり残っていないようです。
その中、
円通寺 鴨沂高校の東
天明の大火の犠牲者を供養する石碑があります。
「為焼亡横死(しょうぼうおうしのため)」とあります
少し分かりにくいですが本堂の右側です
35/00/58.9 135/46/23.2 ±5m
為焼亡横死碑です
もう一つは「清浄華院(しょうじょうけいん)の供養塔」
「横死焼亡百五十人之墓」と記されている五輪塔(高さ約3m)と
すぐ左に石碑があります
大火の後、3月24日から7日間、施餓鬼供養が行われたということです
(どんどん焼けのときも天明の大火七十七回忌をかねて
犠牲者供養法要が行われた)
35/01/19.8 135/46/15.8 ±4m
清浄華院では今回の震災にあたって法然上人800年大遠忌法要を来年春に延期して
震災物故者追悼法要がおこなわれました。
説明の碑
なお、天明の大火の際に御所の西にある新在家門は、普段は開かずの門だった。
この大火の際に開門されたことから、火にあぶられて蛤の口が開いた様にたとえられ
以後「蛤御門」と呼ばれるようになりました
その「蛤御門」の名の付く 元治元年(1864) 蛤御門の変による戦闘の火災です
こちらも有名ですね 「元治の大火」
文久三年の政変(八月十八日の政変)・長州藩士の追放と七卿落ち・池田屋事件に連なる
長州藩が勢力回復をねらい、三家老が兵を率いて上洛、会津・薩摩・幕府連合軍と
京都御所蛤御門・堺町御門附近で戦い、長州藩は敗北。
京都の中心部が激戦地となったために、市中はたちまち猛炎に包まれ、
民家や社寺などを焼き尽くす大惨事となりました。
長州藩邸や堺町御門から出た火が、手のほどこしようもなく燃え広がるありさまを
京都の人たちは「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと称しました。
普通の火災(普通という表現が正しいのかは疑問です)いいかえれば失火(過失)の火災ではなく
人為的(人災)な火災 焼け出された京の人々の心情はいかがなものであったでしょうか
何もかも失う しかも京都に住んでいる人ではない人々によって・・・・
とにかく「火廼要慎」です。 今年も愛宕神社に・・・・・・・・・・・・・・行かねば