雪丸の京都散歩2

雪丸号(自転車)に乗ってちょっとディープな京都をご紹介します

2011年05月

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天明の大火

改正消防法
明日(6月1日)からすべての家庭に火災報知器の設置が義務化になります
お忘れなく

京都では、大火と呼ばれる火災(大火事)が何度かあり
なかでも有名?なのは「天明の大火」と言われる大火事です

京都の歴史上最大の大火といわれる「天明の大火」(団栗焼け)は
江戸時代、天明8年(1788)、1月30日早朝、鴨川の東岸、
宮川町団栗辻子(どんぐりのずし)の民家(宮川町団栗新道角の両替商の空き家)から出火し、
(現在の四条川端下ル付近)
火は宮川筋に南下、さらには折からの強風にあおられ、鴨川を越えて対岸に飛び火した。

洛中の寺町通高辻にあった永養寺に飛び火して そこから北と南、西へも延焼して
2昼夜にわたって燃え続けた
燃えた範囲は鴨川の東から、北は鞍馬口通、南は七条通、西は千本通の内までで、
類焼した町数は約1400町、市街地人口の5分の4
洛中のほぼ九十パーセントが焼失して焼け野原になった。
出火原因は放火らしい

幕府の公式発表は、焼失家屋は3万7000軒・寺院201・神社37・死者は150人以上らしいが
(御所、二条城、東西本願寺などの大規模な建築物を含む)
正確なところは分かっていません

実際は死者だけとっても2600人を超えたという説もありです
これだけの大火でありながら、天明の大火に関する史跡はあまり残っていないようです。

その中、
円通寺 鴨沂高校の東
天明の大火の犠牲者を供養する石碑があります。
「為焼亡横死(しょうぼうおうしのため)」とあります
少し分かりにくいですが本堂の右側です
35/00/58.9   135/46/23.2 ±5m
tenmei-en

為焼亡横死碑です

もう一つは「清浄華院(しょうじょうけいん)の供養塔」
「横死焼亡百五十人之墓」と記されている五輪塔(高さ約3m)と
すぐ左に石碑があります
大火の後、3月24日から7日間、施餓鬼供養が行われたということです
(どんどん焼けのときも天明の大火七十七回忌をかねて
犠牲者供養法要が行われた)
35/01/19.8   135/46/15.8 ±4m
tenmeigorin

清浄華院では今回の震災にあたって法然上人800年大遠忌法要を来年春に延期して
震災物故者追悼法要がおこなわれました。

tenmei-syo

説明の碑

なお、天明の大火の際に御所の西にある新在家門は、普段は開かずの門だった。
この大火の際に開門されたことから、火にあぶられて蛤の口が開いた様にたとえられ
以後「蛤御門」と呼ばれるようになりました

その「蛤御門」の名の付く 元治元年(1864) 蛤御門の変による戦闘の火災です
こちらも有名ですね 「元治の大火」

文久三年の政変(八月十八日の政変)・長州藩士の追放と七卿落ち・池田屋事件に連なる
長州藩が勢力回復をねらい、三家老が兵を率いて上洛、会津・薩摩・幕府連合軍と
京都御所蛤御門・堺町御門附近で戦い、長州藩は敗北。

京都の中心部が激戦地となったために、市中はたちまち猛炎に包まれ、
民家や社寺などを焼き尽くす大惨事となりました。
長州藩邸や堺町御門から出た火が、手のほどこしようもなく燃え広がるありさまを
京都の人たちは「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと称しました。

普通の火災(普通という表現が正しいのかは疑問です)いいかえれば失火(過失)の火災ではなく
人為的(人災)な火災  焼け出された京の人々の心情はいかがなものであったでしょうか
何もかも失う しかも京都に住んでいる人ではない人々によって・・・・

とにかく「火廼要慎」です。 今年も愛宕神社に・・・・・・・・・・・・・・行かねば

吉田神社と燈籠

吉田神社は、京都大学の吉田キャンパスの隣にあります

由来を簡単にご紹介しますと
貞観元年(859年) 藤原山蔭が藤原一門の氏神として奈良の春日大社の
四座の神を勧請したのが最初でその後、平安京における
藤原氏全体の氏神として崇敬を受ける。
春日大社+藤原氏となると「鹿」ですね
境内にちゃんと鹿がいますので 探してみてください。
(ほんとに簡単すぎました)

京都の吉田神社と聞いてほとんどの方は「節分祭」を
思い出されるでしょう 室町時代からの歴史があり
約50万人もの参拝者が節分には京都市内の方はもちろん 
全国から参拝者が集まる。

京都の節分行事の代表格と言っても過言ではないしょう
屋台の数も半端じゃないです
京大周辺は屋台で埋め尽くされます
神社発表によると約800店とのことです(驚)


数では末社「斎場所大元宮」もスゴイです
「さいじょうしょだいげんぐう」と言います

延喜式内社全3132座の天神地祇八百万神を祀るとあります
どうですか八百万神(やおよろずのかみ)です
お参りすると日本全国の神社にお参りしたのと同じなのだそうです

本殿の形にも特徴があり八角形+六角形の後房「重要文化財に指定」

大元宮の参拝は、正月3日間、節分2日間、毎月1日のみです。
普段は門が閉ざされでいますので注意してくださいね

そのほか
「山蔭神社」藤原山蔭を祀る社。山蔭は調理・調味づけに秀でていたと言われており、
料理飲食の祖神として、料理飲食業界から厚く信仰されている
祭典の際は、生間流(いかまりゅう)包丁式の奉納があります
手を使わず包丁とさい箸のみで魚をさばきます
皆様も一度はご覧になったことがあると思います

「菓祖神社」もあります
玉垣には、京都の有名老舗の名前が並んでいます
tamagaki futaba

でも一部の方は「吉田代替わりの儀」(笑)を思い出す方も
おみえになるのでは・・・・・・(汗)

以上、吉田神社でした
いやいや、そうではありません

吉田神社を訪れた目的は、変わった燈籠があると聞いたからです
京大方面からの参道を通って本宮や坂を上がって大元宮方面を
探してみるがない・・・・・・・・・吉田山一帯なので広すぎる 手がかりは
コピー用紙にプリントした写真1枚だけ・・・・・・・・・

困ってしまて結局、社務所へ行って聞いてみた
巫女さん(若い)は、見たことがないとのこと・・・うーんやはりダメですか
そこへ奥から巫女さん(先輩風)登場。

プリントした写真を見るやいなや「ああ、あります 竹中稲荷です」
さすが先輩です たいしたものです。ありがとうございました
こんなことなら最初からここに来るべきであった(反省)

竹中稲荷は 吉田山頂上近くにあります。
雪丸を押して行きます。大文字の「大」の字がホントに大(大きく)に見えます
竹中稲荷に到着するとすぐ確認できました。

takenaka tourou

火炎宝珠(?)燈籠 珍しい形の燈籠です
よく割れないものです
これを堂々とこの場所に置いてあるところが吉田神社の
おおらかなところでしょうか

吉田山は、東西南北どちらからでも入ることができます
全体が公園のように散策できます(公園です)
京都観光に半日いかがでしょか ゆっくり京の空気に浸るのも
いいものです

真如堂や黒谷さんにお越しの際は竹中稲荷の燈籠もぜひご覧ください

近くに在原業平のお墓もあります(十輪寺が有名ですが)
たいへん雰囲気のある素敵なお店もあります・・・・・・・ハイ



謎のマンホール 拾遺?・・・

2010年07月28日に ご紹介させていただきました謎のマンホール

「大正5年 下水」のマンホール
35/01/35.0  135/46/09.1 ±4m 日本測地系


tai5nen

これです 「大正5年 下水」のマンホール

5月2日 雪丸とともに京都市内を爆走(笑)

この日は黄砂がひどく出町から大文字がかすんで見えない

頭の中で「黄砂に吹かれてきこえる歌は・・・・・・」
工藤静香の歌がぐるぐる回る

そんなとき近くまで来たので久しぶりに
「大正5年 下水」のマンホールに会いに行ってみた

今出川通から上ル うん?・えっ!ない大正五年がありません
戻って確認 何回も確認 やっぱりなくなっている

もう一枚の「大正5年 下水」を急いで確認に行く

同志社幼稚園の前の石の縁取りがない「大正5年 下水」のマンホールは
ありました。ここは大丈夫です


tai5nen ato

5月2日の路上状態

これはいけません。「下水人孔 大正2年」のように
行方不明になってしまう。

「下水人孔 大正2年」の文字が入ったマンホールが府庁の付近に
あったらしいが 現在は行方不明です。

だめもとで京都市 上下水道局に問合せのメールを送ったところ

本日 京都市 上下水道局から電話をいただきました

内容は「大正五年 下水」の蓋は平成22年12月 ガタツキが発生したために
取り除いたとのことでした

蓋を取替えガタツキ防止するのではなく
使用していない下水道なので廃止したと思われます
(この件は聞き逃しました 私の想像です)

「大正五年 下水」のおさらいです。
京都市は明治27年(1894)に下水道設置の基礎調査を実施したが、
財政上などの理由から実現に結び付かなかった。
そして、昭和5年(1930)に失業応急事業として下水道事業に
着手したのが始まりであるとある。 
記録上では大正2年や5年にマンホールがあるはずがないのです。
また、京都市市制施行が1889年(明治22年)4月1日 京都市き章は
明治24年(1891年)10月2日に制定 
しかしこのマンホールに京都市き章なし
ゆえに「謎のマンホール」でした

「大正五年 下水」の蓋は「たいへん貴重な蓋なのでセンターで
保管してある」とのことでした。
今後は、展示の予定もあるそうです
まずは 安心ですね

取り急ぎご報告まで

それから「下水人孔 大正2年」の件ですが

少し離れた場所にそれらしきマンホールがあります
「それらしき」とは、磨耗が激しく文字はまったくわかりません
のっぺらぼうマンホールです。

しかし、年代によってマンホールの穴の位置が違います
こののっぺらぼうマンホールが「下水人孔 大正2年」の文字が入ったマンホールの
穴の位置と同じです。たぶん大正2年物だと思います

しかも現役!!  働き者ですね・・・・・・そろそろ100年ですね

京都市 上下水道局の皆様 お世話になりました


住蓮房・安楽房

今年は法然上人八百回忌

5月3日 京都国立博物館行きました

法然上人八百回忌ということで
「法然 生涯と美術」展覧会です

しかし師匠が800年で 弟子(親鸞聖人)が750年
50年なので法要が重なりご本山は大忙し
∴京都市内も大忙し&大混雑ですね
どちらもかなり配慮してみえますが
なにせ日本全国からですから

GWの中の祝日なのでかなり混雑すると思い
朝一番に京博に到着 まだ開館まで10分ある
150人程並んでいる
1時間30分程見て外に出ると行列なし
慌てすぎましたね(笑)

今回の展示は「法然上人絵伝」が充実しています

国宝 法然上人絵伝 巻三十七のうち臨終場面 
京都・知恩院蔵がメインでしょうね
でかい看板になっていましたからね

しかし四十八巻のうち巻三十三
建永二年(1207)二月、法然の弟子・安楽房、六条河原で斬刑
検非違使庁の使大夫尉 藤原秀能などいろんな意味で興味深い場面です
48-33

官人秀能に仰せて、六条河原にして安楽を死罪に行なはるる時、
奉行の官人に暇を乞ひ、一人日没[にちもつ]の礼賛を行ずるに、
紫雲空に満ちければ、諸人怪みをなす所に、安楽申しけるは
「念仏数百遍の後、十念を唱へんを待ちて斬るべし。
合掌乱れずして右に臥さば、本意遂げぬと知るべし」と言ひて、
声高念仏数百反の後、十念満ちける時、斬られるに言ひつるに違わず、
合掌乱れずして右に臥しにけり。

安楽房といえば「安楽寺」 安楽寺といえば やはりこの話からでしょうね
松虫姫と鈴虫姫のお話です

当時、仏教は、貴族仏教で権力者や貴族達だけのものであった。
もちろん国家鎮護が第一ですが・・・・・・・

一般の人 庶民は、こっちに置いといての状態

そんな時の法然上人の登場で末法の時代にすべての人は平等であり
すべての人は「南無阿弥陀仏」に救われると説いた。
武士や農民、あるいは救いの対象から漏れていた(こっちに置いておかれた)
女性達に広く受け入れられ、念仏仏教が大変盛んになった。
念仏を唱えると南無阿弥陀仏により成仏できる

それも当然な流れでしょう。

当然、既成宗教の南都・北嶺の仏教教団はおもしろくない
そんなまやかし念仏は、国家の秩序を破り道徳を乱すものと決めつける。
元久元年(一二〇四年)十月、延暦寺衆徒、専修念仏停止を
座主真性(しんしょう)に訴える(延暦寺奏状)

これに対し、法然上人は「七個条制誡」を示す。
念仏の自粛戒慎を守る百九十名もの門弟の署名
(住蓮房が十六番目・安楽房が三十一番目・親鸞聖人が
八十七番目に署名)を座主に提出した。
よっぽど恐ろしかったにちがいない  そしてその後エスカレートする

そのような事態の中でも、住蓮房・安楽房は別時念仏会を開き、
上人の修する浄土礼讚声明に魅了され、出家して仏門に入る者さえあった。
その中に後鳥羽上皇の女官松虫姫・鈴虫姫がいたのである。
それが住蓮・安楽にとって不幸だったのかもです(失礼)

両姫は容姿端麗(こういう話ではお約束でだいたい美人)
教養も豊かであった事から上皇のお気に入り
他の官女の嫉妬も相当なものであった

そんなおり建永元年(一二〇六年)七月、上皇が紀州熊野へ行幸のとき、一日暇をもらった
両姫は、清水寺に参拝し、その帰り「鹿ヶ谷草庵」において法然上人の説法を聞く。
それが忘れられず、両姫は、秘かに申し合わせて夜更けに御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵」を
訪れ、住蓮房・安楽房に出家授戒の願いを申し出た。

そんなこと受け入れたら上皇の怒りをかうのはあきらかで両上人は、
出家するのであれば、上皇の許可が必要と思いとどまるように説得しようとするが
あまりに必死で願うので両上人も心を動かされ、

ついに住蓮房は松虫姫を、安楽房は鈴虫姫を剃髪した。
いや、してしまった!の方がいい表現かも
時に松虫姫は十九才、鈴虫姫は十七才であった。しかも美人

この事を知った上皇は当然、激怒 専修念仏教団を弾圧する。
翌建永二年(一二〇七年)二月九日
住蓮房を近江国馬渕(現在の近江八幡市千僧供町)で打ち首

安楽房を京都六条河原において打ち首の刑にした

それでもまだ上皇の怒りは収まらず
弟子が悪いのは師匠の責任である・・・・
部下の責任は上司の責任である・・・・・理論で

専修念仏の指揮者である
法然上人を讃岐国(現在の香川県高松市)に流罪にし、
師弟の親鸞聖人を越後に流罪の刑にした
建永(承元)の法難ですね

その後、許され流罪地から帰京した法然上人が
両上人の菩提を弔う為に「住蓮山安楽寺」を建立した

江戸時代に入り、処刑の地となった千僧供村の村人はこれを哀れみ、
また安楽房が死に際に住蓮房との合葬を希望していたこともあり、
元禄2(1689)年に2人の墓を建立し弔いました

街道巡りの好きな友人のY氏とおじゃましたのは 2006年2月
中山道巡りで少し街道から外れるが行ってみた
そのときお墓は傾いていた
2006-2-5

2006年2月5日の墓所  滋賀県近江八幡市千僧供町
35/06/10.1  136/07/20.7 ±4m 日本測地系

写真の真中にある3mほどある看板は国道にあったもので
何らかの事情でここに置いてあった
看板のコンクリートの台は今でも国道にあります

5年ぶりにおじゃましたら お墓はきれいに整備され大きな看板はなくなっていたが
首を洗った首洗池も整備されていました

anjyuhi

街道沿いにある住蓮房・安楽房 御墓の道標碑

anjyuhaka

2011年3月 向って左が住蓮房・右が安楽房です

調べてみたら
京都新聞  2006年9月19日(火)の記事に
首洗池は円形で、周囲約30メートル、深さは1メートルほど。
周囲には石碑も建てられ、地域の歴史として伝えられてきたが、
戦後になって水が枯れ、草が生い茂り、往時の面影はなくなっていた。
整備計画が持ち上がったのは、昨年8月。池から約300メートル離れた
ところに建てられていた住蓮坊の墓が倒壊したことがきっかけになった。

地元自治会が中心になって募金を募り、また、2人の僧にゆかりの
住蓮山安楽寺(京都市左京区)からも寄付が寄せられた結果、
墓の修復費を大幅に超える金額が集まった。
そこで、長年荒れ放題になっていた首洗池も同時に
整備しようということになったという。
このほど、住民ら約40人がかまやスコップを手に草を刈り、
池にたまった土砂を取り除いた。
また家庭で不用になった庭石など約60個を持ち寄り、
池の縁を固める石堤として再利用した。
千僧供町まちづくり委員会の馬場茂喜委員長は「いずれは水を張り、
往時の景観を取り戻したい。
また、歴史と共存するまちづくりの拠点として活用することを検討している」と話している。

安楽寺さんもなかなかやりますなぁ

西本願寺

今回は西本願寺です。 ご存知、浄土真宗本願寺派の本山です

鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれたが、その後、
室町時代に出られた蓮如上人(れんにょしょうにん)によって民衆の間に
広く深く浸透して発展し、現在では、わが国における仏教諸宗の中でも
代表的な教団の一つとなっている。

親鸞聖人が弘長2年(1262)に90歳で往生されると
京都東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔を建て、遺骨をおさめた。
ここから始まり 以後、叡山との軋轢
蓮如上人の登場 越前(福井県)吉崎 門徒たちは武装して一揆 
山科本願寺 法華宗・戦国大名とのかかわり
大坂石山本願寺 そして織田信長の登場 11年にわたる石山戦争
細かな説明は省略させていただきますが
壮大な本願寺物語です。

そして天正19年(1591)秀吉の京都市街経営計画にもとづいて
本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は七条堀川の現在地を選び、
ここに寺基を移すことに決められた。
阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した文禄(ぶんろく)元年(1592)、
上人は積年の疲労で倒れられ、50歳で往生された。
長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継がれたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた
譲状(ゆずりじょう)があったので、教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれた。

これには大坂本願寺の退去に際して、講和を受けいれた顕如上人の退去派と
信長との徹底抗戦をとなえた教如上人の籠城派との対立が背景にあった。

その後、教如上人は徳川家康に接近し、慶長(けいちょう)7年(1602)
家康から烏丸七条に寺地を寄進され、翌年ここに御堂を建立した。
これが大谷派本願寺の起源で、この時から本願寺が西と東に分立したのである。
「西本願寺のHPより抜粋」

宗教・仏教の世界でも巨大化して一大勢力となると色々な思惑が交錯して
思いもかけないことが起こるものですね
歴史が証明してくれていますが・・・・・
HPのアドレスの表記ですが 西本願寺「hongwanji」、東本願寺「honganji」・・・微妙
建物の位置・柱の形・畳など こちらも微妙です
まぁそれはこちらに置いて・・・進みます

それでは七条堀川の交差点の興正寺から出発しましょう
北に向って行きます。ずっとお堀沿いですね
ここでちょっと寄道です。興正寺の門を入ると ふだん見られない
西本願寺のあの飛雲閣を2階から上ですが無料で見ることができます
もちろん後姿です。 内緒にしておいてください(秘)
歩道に戻りましょう。 今の時期限定ですが ツツジがずーっと本願寺まで
咲誇っています。きれいですよ
そろそろ西本願寺の門に到着です
今年は親鸞聖人750回大遠忌ですね たいへんです
もちろん東本願寺もです
それに法然上人800回大遠忌 浄土宗の寺院もお忙しいですね


その前にお堀のなかを注意して探すと石垣に丸にに十の薩摩藩島津紋が
入った石があります。今日は確認するだけにしてくださいね。
よく見ないとわかりませんよ
詳しくは「京都石シリーズ」でご紹介します 石1つにもエピソードがあります
お楽しみに!

管理人は雪丸号(自転車)なので北に行きます 自動車もいっしょです
花屋町通まで行って左折して西に向うと西本願寺駐車場があります

注意 親鸞聖人750回大遠忌期間は自家用車は利用不可です
次回大遠忌法要は5/9から5/16です
他に色々規制がかかるようです
nishikisei

通行にも規制有です


それでは北門から入って正面に向います
見所満載の本願寺さんですが 本日は「縁側と廊下の埋め木」です

本願寺さんのHPに「本願寺おもしろスポット」として掲載されています
現地確認してみましょう 以前から柱の瓢箪の形は知っていましたが
いろいろあるようです

ところで「埋め木」ってなんでしょうか
「動物や植物、モノをかたどった木によって、節穴や亀裂が埋められています。
参拝される人々を少しでも癒すことができればという大工達の粋な気遣いを
感じることができます」とのことです。

阿弥陀堂に上がってみましょう まず右側の廊下です スロープのある方です
HPでは8箇所くらい紹介されていたので探してみます
すると すぐに発見いっぱいあります。色々な形ですね
スロープ側の手すりには「紅葉」があります
もちろん左側の縁側や廊下にも色々あります
nishimomiji

紅葉です

廊下には ハート・富士山・壺・瓢箪・葉っぱ・扇・クローバ・花びら・傘
亀屋清永さんの清浄歓喜団(笑)もあります
かなりの数があります

富士があって茄子がある ひょっとしたら・・・・探しましたが
みあたりませんでした「鷹」
nishinasu

茄子ですね

nishiseijyo

清浄歓喜団?(笑)

しかし、廊下に向って(下を向いて)埋め木の写真を撮影していると
怪しさいっぱいです(汗)
おすすめは、早朝ですね 開門時間は、年間を通して午前5時30分です

すみません
今回は西本願寺のほんの一部でした


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